鶏とかの鳥類が水を飲む時は、水にくちばしを漬けたかと思うと、すぐに天を仰ぐように頭部を上げて、上下くちばしの間に溜まった水を胃袋まで流し込むような動作が見られます。しかし、キリンが水を飲んでいる様子を見ていると、ずーっと口先を水に漬けたまま、いっこうに頭を上げる動作をしません。「え?あれで水を飲めてるの??」と一度でも思われた方は、決して少なくないと思います。その夜、考え込んで眠れなかった人もいらっしゃることでしょう。
犬や猫が、床や地面に置かれた容器内の水をピチャピチャと飲むシーンは、多くの人が普段から目にしていると思うのですが、あまりその不思議さに気付かないと思います。しかし、キリンの場合は首が非常に長いですし、水面から首の根元までは相当な高さになりますので、そこで初めて気付く人が出てきます。「水、どうやって上がっていくの??」と…。
寝たきりの人や、ぐうたらな人を除けば、水を飲んだり何かを食べたりするときには、少なくとも上半身だけは直立させています。そのため、飲み込んだ水や食物が食道を下降して胃袋に向かうことは、ごく当たり前のこととして何も気にしません。即ち、食道に入った物にも重力が掛かっているからであり、落ちていくのは当たり前だと思うわけです。
だからこそ、くうたらでない多くの人は、飲んだり食べたりするときには敢えて上半身を起こします。寝ころんだ状態だと胃方向への重力が掛かりませんので、食道内が詰まったりして健康上良くないと思うからでしょう。
「重力かぁ…。無重力状態…、あっ、宇宙ステーション内は無重力ですよね。でも、宇宙飛行士の人たちは、宇宙ステーション内で食事をされていました。あれで、飲み込んだものは胃袋まで行くんですか??」…と、随分とマニアックな疑問を持つ人もいらっしゃることでしょう。
結論を申し上げますと、食道は、いわゆる〝蠕動(ぜんどう)運動〟によって、飲食物を胃袋の方向へと輸送します。その能力は凄くて、キリンのように口から首の根元までの高低差がかなり大きくても、重力に逆らって飲食物をどんどんと押し上げていきます。
ヒトでも同様です。試しに、あなたも行ってみてください。掲載しました図(高画質PDFはこちら)の上段やや右よりの写真のようなポーズを取りながら、水などの液体を飲んでみてください。
どうでしたか?何の問題も無く飲めたでしょう。もっと過酷な条件で試したければ、逆立ちしながらビールなどの液体を飲んでみてください。その場合も、何ら問題なく飲めるはずです。もちろん、無重力状態では逆立ちの場合よりも容易く飲むことが出来ます。
「食道って凄いんですね。単なるパイプではないんですね。」
しかも、固形物ならいざ知らず、水などの液体を重力に逆らて押し上げようとすると、蠕動運動において食道内が閉まっている部分、即ち飲み込んだ液体の一塊が通り過ぎた直後の部分は、ぴっちりと閉まっている必要があります。もし、少しでも隙間が空いた状態であれば、液体は重力によって口の方向に漏れ出します。
また、蠕動運動を実現させるためには、食道壁を構成している筋肉群が、見事に連係プレーをする必要があります。ちょうど、人間の集団が観客席でウェーブを起こすときのように、隣の人の動きをよく観察し、タイミングを見計らって自分も動かなければなりません。人間は、脳があるためそれをコントロールできるのですが、食道には脳がありません。ただ、食道の壁の内部に張り巡らされている神経系が、そのコントロールを行っています。言い換えるなら、食道というのは単なる肉のパイプなのではなく、非常に高性能な脳(神経系)が組み込まれた器官だということになります。
その高性能さを実感するために、次のことを考えてみましょう。例えば、人工心臓を作るとしましょう。心臓はポンプですから、既に実現されていますように、比較的容易に作ることが可能になっています。しかし、重力に逆らって水を押し上げることのできる食道を作れと言われた場合、それはギブアップしたくなる課題だと言えます。
食道の内腔は、通常は閉じている状態です。これが開く瞬間というのは、大まかには2種類の刺激が必要だとされています。1つは、何かが飲み込まれたことによって発生する、喉の奥の部分からの嚥下刺激です。2つ目は、物が通過しようとするとき食道壁が押し広げられて生じる伸展刺激です。この2つを検出するセンサーを取り付け、食道の各部分の筋肉をタイミングを見計らって順序良く弛緩と収縮を起こし、蠕動運動という生物的な動きを実現させる必要があります。これは、心臓のポンプ機能のような比較的単純な動きではありません。実際のところ、人工食道は不可能だと思います。疑似的かつ蠕動運動をしないパイプなら簡単に作れるでしょうけれど…。
或いは、食道と胃の繋ぎ目部分も難しいです。例えば、飲み込んだ液体が胃に到達した後、胃の入り口の部分(噴門)がしっかりと閉まらなかった場合、寝ころんだだけでも胃内の強酸が食道のほうへと漏れ出すことになります。このような状態では、食道が胃酸によって溶け出しますし、人工的な食道でその耐酸性を上げたとしても、寝ているうちに胃酸が、気管や喉の方まで逆流してしまう可能性があります。
本来の健全な食道であれば、物を通すときだけ一時的に弛緩して物を通し、それ以外は閉じたままですので、たとえ噴門の締まりが悪くても胃酸が食道を遡ることはありません。しかし、食道の機能を劣化させてしまいますと、締まりが悪くなって逆流性食道炎などを発症してしまいます。
食道の機能は、上述しましたように、高性能な神経系と、そこから発せられる筋収縮のための信号、そして、その信号を受けて忠実に稼働する筋肉群によって構成されています。一言で言えば、非常に高性能かつデリケートな器官ですので、熱いものを何度も飲み込んだり、濃度の高いアルコールを通したり、栄養状態が悪くなるような生活習慣を繰り返すことによって、機能低下を起こしてしまいます。
今日のお話の結論として、次のようにまとめておきます。食道が単なる肉のホースであれば、キリンは水を飲むことが出来ません。もちろん、ヒトも健康を維持することが出来ません。食道は、それ自体が高度な神経系を持った、超高性能な自律器官です。余計な負荷をかけることなく、労わりながら、感謝してそのお世話になることにしましょう。