「噛む」ことに関するお題を戴きましたので、最も影響が大きいと考えられる〝脳機能との関係〟を調べた研究論文の一つを紹介しようと思います。
この研究の被験者になったのは、韓国に在住の健康な大学生25人です。彼らを2グループに分け、片方のグループにはチューインガムを噛んでもらい、もう片方のグループには硬い木の棒を噛んでもらいました。
なお、科学的な研究というのは、誰がやっても同じ結果が出ることが(再現性)非常に重要ですから、チューインガムとして第三者が同じ物を手に入れられるように規格の整ったものが選ばれます。この研究において選ばれたのは、日本の一般医療機器に指定されている歯科用のパラフィンワックスガム(paraffin wax gum)です。また、硬い木の棒として選ばれたのは、舌圧子(Tongue Depressors)です。これも歯科用で、口内や喉を観察するときに道要られる、舌を押さえるための平たい棒です。ちょうど、アイスキャンディーの棒にそっくりです。
また、噛み方も統一しておく必要があるわけで、被験者は右大臼歯領域を1Hzの周波数で(即ち、1秒に1回の割合で)、30秒間の咀嚼と30秒間の安静を交互に繰り返して、計5分間の咀嚼を行いました。
次に、咀嚼前後の何を調べたのかと言いますと、一つは脳内のグルタチオン濃度です。
グルタチオンと言えば、近年ではサプリメントの形でも販売されていて、ネット上でも安易に宣伝している人を見かけるのですが、これはSNS社会に多い受け売り的かつ軽率な情報発信ですので、ご注意ください。そもそも、グルタチオンで大切なことは、その細胞内濃度であって、細胞外には細胞内の1/100から1/1000程度の濃度しかありません。例えば、口からグルタチオン(トリペプチド;アミノ酸3個が結合したもの)を放り込んだ場合、これが小腸の刷子縁に在りますアミノペプチダーゼによる分解から逃れ、門脈経由で肝臓に入ってからも代謝を受けず、そのまま循環血に乗って血中濃度が少し高まり組織に運ばれたとしても、これが細胞内へと繁栄されることについては殆ど期待できません。
また、医療機関では、腸管からの吸収が期待できないため点滴による投与が行われているのですが、強引に血中に放り込んだ場合、通常ならばあり得ない細胞外濃度の高まりになりますから、多かれ少なかれ副作用が発生します。
結局、グルタチオンというのは細胞内の解毒や抗酸化にとって非常に大切な物質なのですが、だからと言って体外から投与すべきものではなくて、あくまで細胞に作ってもらわなければならない物質です。「では、どうすれば細胞に作ってもらえるの?」ということになりますが、その方法の一つが今回紹介する方法になります。
調べられたことは他にもあって、それは記憶力への影響です。記憶力については2つの指標が用いられ、一つは〝即時記憶〟であり、もう一つは〝物語記憶〟で、これはいわゆるエピソード記憶と同義であると解釈して結構かと思います。
「では、最初のグルタチオンとの関係は?」ということですが、神経細胞(ニューロン)は細胞内のグルタチオン濃度を極力高めることによって、活性酸素種の発生源となる大量の酸素を用いて活動しています。ところが、グルタチオン濃度が低下する状況が生じると、神経細胞内の酸化ストレスが高まって情報処理能力が低下するのでは…、という関係性を検証するためでもありました。本来、グルタチオン濃度に注目するよりも、記憶力に注目した方が直接的であると考えられますが、グルタチオン濃度を高める方法の追及も大切だというところなのでしょう。
では、実験結果をご紹介します。掲載した図(高画質PDFはこちら)の左側のグラフは、縦軸に脳内(=神経細胞内の)グルタチオン濃度、横軸は咀嚼前と咀嚼後が採られています。そして、左側のグラフはチューインガム(パラフィンワックスガム)を咀嚼した場合であり、右側のグラフは木の棒(舌圧子)を咀嚼した場合です。
結果は、木の棒を咀嚼した場合にのみ、グルタチオン濃度の有意な上昇が確認されました。一方のチューインガムの方は、傾向としてはグルタチオン濃度の若干の上昇傾向を見ることは出来ますが、統計学的な有意差はありませんでした。
次に、記憶力との関係ですが、これは広く捉えて認知機能との関係であると捉えて問題はありません。掲載した図の右側がそのグラフなのですが、図中の左側がチューインガム咀嚼群、右側が木の棒咀嚼群です。咀嚼後のグルタチオン濃度の上昇はもちろん個人差があるのですが、木の棒を咀嚼したグループでは、グルタチオン濃度の上昇と記憶力の上昇とに、有意な正の相関が認められました。一方、チューインガム咀嚼群では若干の正の相関が見て取れますが、統計学的な有意差は認められませんでした。
以上を短文にてまとめると、次のようになります。「軟らかい物を頑張って噛んで咀嚼回数を増やしても、神経細胞内のグルタチオン濃度を高めたり、記憶力をはじめとした認知機能を高めたりする効果は殆ど期待できない。それに対して、硬いものを休み休みであっても5分間ほど咀嚼しただけで、グルタチオン濃度が高まり認知機能も高まる」ということになります。
図の左下にアイスキャンディの写真を載せましたが、アイスの部分を食べることよりも、棒の方を5分程度咀嚼することの方が、よほど大切だと言えるわけです。