《今回のアイキャッチ画像(高解像度版)》
◆ 第16話 ── MEGが捉えたみのりの脳内
厚い防磁扉が閉まると、MEG室は、まるで世界から切り離されたような静寂に包まれた。観察室のガラス越しに、巨大な白いドームの下で静かに座るみのりの姿が見える。
佐野教授は、操作卓の前に立ち、軽く息を整えてから言った。
「……では、測定を開始します」
大学院生が頷き、MEGのシステムを起動する。モニターに、脳の磁場を示す初期波形が現れた。最初はどこにでもある“安静時の脳”の波形だった。しかし…数秒後──画面の波形が、妙に“静か”になった。
「……あれ…?」
大学院生が眉をひそめる。
通常、安静時でも微細なノイズが混じる。だが今、画面にはノイズがほとんど存在しない。まるで、脳全体が“ひとつの音”を奏でているような、異様な静けさだった。
佐野教授は、画面に顔を近づけた。
「……これは…… 異常ではなく… “完成”に近いのでは…」
高木は、息を呑んだ。
(……え? …完成に近いって… いったいどうなっているんだ……)
そのときだった。モニターの右上、普段ならわずかな揺らぎしか見せない領域が、ゆっくりと、しかし確実に“動き”を帯び始めた。
大学院生が、息を呑むように小さく声を漏らした。
「……先生… 視覚化ネットワークと… 数量処理領域が… 同時に動いています…?」
その声には、驚きと戸惑いが入り混じっていた。
本来なら、問題を解くときに使われる領域と、図形や空間をイメージするときに働く領域は、“交互”に点灯するのが普通だからだ。同時に動くということは、脳が“二つの作業”を同時に走らせている…ということである。
佐野教授は、画面に顔を近づけ、静かに…、しかし確信を持って頷いた。
「……思考の“形”が… そのまま磁場に出ている… これは…珍しい現象です」
その声は、興奮ではなく、研究者としての純粋な驚きに満ちていた。
画面の波形は、まるで“数式が動いている”かのように、滑らかに、そして規則正しく変形していく。
高木は、思わずみのりの方を見た。みのりは、静かに目を閉じている。呼吸は落ち着いていて、まるで深い瞑想に入っているかのようだった。
(……今、何を考えているんだ……? 問題の続きを解いているのか…… それとも……別の何かを……)
高木の胸の奥に、説明のつかないざわめきが広がった。
みのりの脳は、“考えている”というより、“勝手に動いている”ように見えた。視覚化ネットワークが形を描き、数量処理領域がその形に意味を与え、前頭前野がそれを“解法”として整理する…。そして、それらがひとつの流れとして同時に走っている…。
佐野教授は、画面から目を離さずに呟いた。
「……これは…… 脳が“段階”ではなく、“流れ”として思考している状態だ… 人間では滅多に見られない…」
大学院生は、震える手でメモを取っていた。
高木は、ただ黙って画面を見つめるしかなかった。
(……佐伯…… 君の脳は…… どこまで行ってしまうんだ……)
測定が終盤に差し掛かったころ… 画面の波形が、ふっと柔らかく変化した。周波数が揃い、脳全体が“心地よさの極み”のようなパターンを示した。
大学院生が驚いた声を出す。
「せ、先生…… 今度は…… 情動の安定……? いや…、もっと深いのかも…」
佐野教授は、みのりに向かって声をかけた。
「佐伯さん。今、何か別のことを考えましたか…?」
防磁扉越しに、みのりの小さな声が返ってきた。
「……水瀬あかり…という人のことを思い出しました…」
観察室の空気が、わずかに揺れた。
そして高木は、胸の奥がざわつくのを感じた。
(……水瀬あかりさん… 佐伯がここまで変わった“きっかけ”になった人だ…)
佐野教授は、画面を見つめながら思った。
(……思い出しただけで…… …脳全体の状態をここまで変えてしまう人物がいるとは……)
◆ 測定終了──浮上したみのりの不安
測定終了のアラームが、MEG室の静寂を破るように小さく鳴った。厚い防磁扉が、油圧のわずかな唸りとともにゆっくりと開いていく…。
白いドームの下から出てきたみのりは、どこか心細そうな表情を浮かべていた。歩き方はしっかりしているのに、その目だけが、「自分の中で何かが変わってしまったのではないか…」という不安を隠しきれないでいた。
観察室に戻ってきたみのりは、椅子に腰を下ろすと、小さな声で呟いた。
「……あの…… 私… …どうなってるんでしょう……」
その声は震えてはいない。ただ、“自分の脳が自分のものではないような感覚”を、どう扱えばいいのか分からない──そんな戸惑いが滲んでいた。
佐野教授は、みのりの正面にゆっくりと座り、その心境を察し、安心させるように柔らかく微笑んだ。
「異常ではありませんよ。ただ……あなたの脳は、私たちがまだ理解していない“構造”を持っているようです」
みのりは、その言葉の意味を理解しようとするように、ゆっくりと瞬きをした。
佐野教授は、少しだけ専門的な説明を加えた。
「たとえば…… 普通の人の脳は、“タスクを処理するネットワーク”と、“内側の思考を司るネットワーク”が、交互に働くようにできています。これは、脳のエネルギー効率の問題でもあるし、情報処理の仕組みそのものでもあるんです」
みのりは、静かに聞いている。
「でも、佐伯さんの脳は……その二つが“同時に”動いていました。しかも、互いに干渉せず、むしろ補い合うように働いていたんです。これは… 脳科学の分野でも、ほとんど報告がありません」
高木は、横で聞きながら
(……よくは理解できないが…… しかし…そんなことが……)
と息を呑んでいた。
佐野教授は続けた。
「脳幹から皮質への信号の伝わり方も、通常とは違っていました。まるで“基準振動子”のように、脳全体のリズムを整えているように見えたんです。……これは…、脳の情報処理が“段階的”ではなく、“統合的”に行われている可能性があります」
みのりは、自分の脳の中で起きていることが、どれほど特異なのかを理解しきれず、ただ小さく頷いた。
「……そうなんですね……」
その声には、不安と、ほんの少しの安堵と、そして“自分の中で何かが動き始めている”という静かな実感が混ざっていた。
佐野教授は、みのりのその表情を見て…
「佐伯さん、今日は本当にありがとう。データはしっかり取れています。このあとは、少し休んでいてください。廊下にベンチがありますから、そこでゆっくりしていてください」
みのりは、教授の穏やかな声に安心したように頷いた。
「……はい。わかりました」
静かに頭を下げ、観察室を出ていく。
扉が閉まると同時に、佐野教授は、机の端に置かれた内線電話を手に取った。
「……すみません、事務の山本さん? あ…、佐野ですが…。廊下のベンチに、佐伯さんという学生さんが座っています。今日の測定で少し疲れていると思うので……温かいお茶か、何か飲みやすいものを持っていってあげてもらえますか。…ええ、無理のない範囲で構いません。お願いします」
◆ MEGの結果についての佐伯教授の見解
そして、みのりの姿が見えなくなった観察室には、しばしの静寂が落ちた。
佐野教授は、先ほどまで映っていたMEGの画面を見つめたまま、深く息を吐いた。
「……高木先生」
呼ばれた高木は、姿勢を正した。
「はい、先生」
佐野教授は、画面に残された磁場パターンのログを指しながら言った。
「今日のデータは…… 私たちがこれまで扱ってきた“脳活動”の範疇を超えています。単なる高活性でも、異常波形でもない。“構造そのものが違う”としか言いようがないんです」
高木は、喉が鳴るのを感じた。
「……そうなんですね…」
「ええ。特に、視覚化ネットワークと数量処理領域の同時活性化… あれは、“理論上は可能だが、実例はない”とされている現象です」
佐野教授は、ログをスクロールしながら続けた。
「それに……脳幹から皮質への同期信号。あれは、脳全体のリズムを“外側から整えている”ように見えました。…普通は… 皮質側が主導するはずなんですが…… 佐伯さんの場合は逆でした…」
大学院生が、おそるおそる口を開いた。
「先生…… つまり、脳幹が“メトロノーム”みたいに、全体のテンポを決めていた… ということですか……?」
佐野教授は、満足そうに頷いた。
「うん、そんな感じだ…。…それ、非常に良い表現だねぇ…。脳幹が“基準振動子”として働き、皮質の複数ネットワークを同じ位相に揃えていた可能性があるんです」
高木は、思わず呟いた。
「……私には詳しくは解りませんが…、そういうことが…人間の脳で起こるんですね……」
佐野教授は、高木の目を見て微笑んだ。
「高木先生… あなたは高原先生の研究室の出身だそうですね…。当時、私との直接的な接点はありませんでしたけど…、人のつながりって尊いものだと改めて感じました。あなたが佐伯さんを連れてきてくれなければ、こんなデータは得られなかったわけですから…」
高木は、少し照れたように頭を下げた。
「いえ…… 佐伯のことが… 少しでも理解できるなら、私は喜んで…」
佐野教授は、観察室の空気を引き締めるように姿勢を正した。
「さて──今日のデータは、これから数日かけて詳細に解析します。特に、脳幹の同期パターンとDMNの安定化の関係を調べたいです」
大学院生が頷く。
「次の測定は…どのような形にしますか?」
佐野教授は、少し考えてから言った。
「次も、佐伯さんや高木先生が協力してくれるなら…という前提だけどね…。その場合は、“外部刺激”を入れてみたい。視覚刺激、聴覚刺激、あるいは簡単な課題を与えたときに脳の同期がどう変化するか… それを見てみたいね」
高木は、その言葉の意味を考えながら尋ねた。
「……ということは、また佐伯に来てもらう必要がある、ということですね」
「ええ。佐伯さんの脳は、今後の神経科学にとって非常に重要な“鍵”になる可能性があります。ぜひ、また協力していただきたいですね」
佐野教授の声は、研究者としての決意と、ひとりの人間としての敬意が入り混じっていた。
大学院生も、小さく頷きながら言った。
「……今日のデータ、本当にすごかったです。正直、鳥肌が立ちました……」
高木は、みのりの背中を思い浮かべながら…静かに答えた。
「……佐伯なら、きっと協力してくれます」
佐野教授は、満足そうに微笑んだ。
「では、解析に入りましょう。今日のデータは……私たちの研究を大きく前に進めるはずです」
観察室の空気が、静かに、しかし確実に変わった。そして、“未知の領域に踏み込んだ”という実感が三人の胸に広がっていた。
◆ 廊下のベンチであかりさんに触れる
廊下に置かれた、けっこうゆったり座れる大きめのベンチで、みのりは一人座っていた。研究室の外は、驚くほど静かだった。夕方の光が、研究棟の長い廊下に斜めに差し込み、床に淡いオレンジ色の帯を作っていた。
…ただ、みのりの胸の奥には、じんわりとした不安が残っていた。
(……私の脳……本当に……どうなっているんだろう……)
自分の中で何かが変わってしまったような…… そして、それが“悪いこと”なのかどうかも分からない。
佐野教授の言葉は優しかった。ただ……「あなたの脳は、私たちがまだ理解していない“構造”を持っているようです」という言葉が、頭の中で何度も反芻されていた。
みのりは、両手を膝の上で組み、深く息を吸った。
(……そうだ! あかりさんなら… …何か分かるかもしれない…)
そう思った瞬間、胸の奥の不安が、少しだけ形を持った“問い”に変わった。
みのりは、ゆっくりとスマホを取り出した。
画面に映る“水瀬あかり”の名前を見た瞬間、心の奥がふっと温かくなる。
(……聞いてみよう…… 今の私の脳が……どうなっているのか……)
そして、みのりはメッセージを打ち始めた。
『今日、大学の脳科学の研究室にてMEGの測定を受けました。なんだか……私の脳、変なんです…。どうなっているのか…教えてほしいです。』
数分後、スマホが小さく震えた。
みのりは、画面を開いた瞬間、胸の奥がきゅっと締めつけられるような感覚に包まれた。
そこには、あかりさんの、あの落ち着いた文体が並んでいた。
『みのりさん。今日の測定、お疲れさまでした。まず最初に伝えたいのは、“あなたの脳は全然変じゃない”ということです。むしろ、“本来の姿に近づいている”ということなんです。』
みのりの指先が、ほんの少し震えた。そして、メッセージは続いた。
『今日のMEGで見えた変化は、“壊れている”からではありません。あなたの脳が、これまでよりも深く、そして広く、世界を理解しようとしている証拠です。理解力や洞察力が急に高まったように感じるのは、脳のネットワーク同士がこれまで以上に強く結びつき、互いを補い合うようになってきたからです。これは、あなたの中にずっとあった力が“目を覚まし始めた”だけなんですよ。』
文章は淡々としているのに、その一つひとつが、みのりの胸の奥に静かに染み込んでいく。
メッセージはさらに続いた。
『今日のMEG検査では、“統合状態”に近いパターンが見られたはずです。複数の思考回路が同時に働きながらも、互いに干渉せず、むしろ調和して動いている状態です。普通の人では、緊張や負荷がかかると崩れてしまう部分が、みのりさんの場合は、むしろ安定しているはずです。これは、理想的であり、そして、とても美しいことです。』
みのりは、そこまで読んだとき、以前にも経験したような衝撃が全身に走った。
(えーーっ!! ……だって、あかりさん…… MEG測定の現場に居たわけでもなく… もちろん、そのデータを見たわけでもないのに…。…それなのに… …それなのに… …なぜ、そんなことまで分かるの…)
あかりさんのメッセージはさらに続いた。
『不安になるのは当然です。自分の中で起きている変化は、たとえ良いものであっても、最初は“怖さ”として感じられるものです。でもね、みのりさん。あなたの脳は、あなたの希望や夢を叶える方向に、急速に進化しつつあるんですよ。あなたが“理解したい”と願うものに、あなたの脳はちゃんと応えています。その変化は、あなたの味方です。』
みのりの視界が、少しだけ滲んだ。
『もし、また不安になることがあったら、いつでも連絡してください。あなたは、一人ではありませんから…。』
最後の一文を読んだ瞬間、みのりの胸の奥が、じんわりと温かく満たされ、大粒の涙が溢れそうになった。
(……あかりさん…… どうして…こんなに…… 私のこと……。そして、……あかりさんは… ……脳科学の教授よりも凄い人……)
窓から差し込んだ夕方の光が、廊下に長く伸びていた。みのりは、スマホを胸に抱きしめた。
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