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◆ 第15話 ── 脳科学研究室での超異例の展開
みのりから受け取った物理学の解答用紙を見たせいで… 誰も動かない、誰も言葉を発しない…という時間が流れていた。そして、測定室には、脳波計の「ピッ……ピッ……」という小さな待機音だけが響いていた。
やがて、その静寂を破ったのは、佐野教授のかすれた声だった。
「……脳波なんて、…どうでもよくなってきたなぁ…」
佐野教授が、みのりの解答用紙を見つめたまま、誰に向けるでもなく、独り言のようにつぶやいた。そして、その声は震えていた。興奮か、恐怖か、自分でも分からないまま…。
大学院生が、脳波計の前で固まったまま言った。
「せ、先生…… 脳波測定、どうしますか……?」
佐野教授は、ゆっくりと首を横に振った。
「……いや。こんなものを測っても、“表面”しか分からない」
高木が思わず聞き返した。
「表面……?」
佐野教授は、みのりの方を見た。その目は、明らかに研究者の目だった。獲物を見つけた…というわけではないが、明らかに“人生に一度の大発見をした”ような目だった。そして、おもむろに言った。
「この子の脳は…… “構造”からして違う可能性がある。脳波なんて、前座だよ。本当に見るべきは、もっと奥だ」
大学院生が震える声で言った。
「fMRI……ですか……?」
佐野教授は、静かに、しかし確信を持って頷いた。
「……そうだ。fMRI、MEG、PET…… 使えるものは全部使いたい。そして、この子の脳の“仕組み”を知りたい」
みのりは、状況がよく分かっていない様子で、ただ静かに座っている。佐野教授は、みのりの方へ歩み寄った。その表情は、研究者としての興奮と、人間としての畏怖が入り混じっていた。
「佐伯さん…。あなたは、ここに来るべき人だ。高校なんかに置いておくべき人じゃない…」
高木の胸が大きく脈打った。
(……来た…… 飛び入学の話か……)
佐野教授は、みのりの目線に合わせて再び腰を落とした。
「佐伯さん。あなたは、どうしてこんなに速く問題を解けるんですか?」
みのりは、少し考えてから答えた。
「……えっと…… 問題を見たら、頭の中で勝手に“形”が動くんです。それを、そのまま書いただけで……」
佐野教授は、息を呑んだ。
「形が…動く……?」
「はい。なんか…… 運動とか、力とか、波とか、…その式とか…、そういうのが全部、頭の中で勝手に動いて、最後に“ここに落ち着くよ”って教えてくれる感じです」
大学院生が大きく目を見開き、思わず口を押さえた。
佐野教授は、震える声で言った。
「…それは… …普通の人間には絶対に起こらない現象だよ」
みのりは、困ったように笑った。
「え……そうなんですか?」
高木は、胸が締め付けられるような感覚に襲われた。
(……佐伯… 君は、自分がどれほど異常なのか、まだ分かっていないんだ……)
佐野教授は、立ち上がり、高木の方を向いた。
「高木先生。この子は……高校に置いておくべきじゃないですよ。うちの大学で、正式に研究に参加してもらいたいです」
高木は息を呑んだ。
(……もしや… 本当に…飛び入学の話になるんじゃないだろうな…)
大学院生も、興奮した声で言った。
「先生…… この子が研究室に来てくれたら…… 日本の脳科学、変わりますよ!」
佐野教授は、深く息を吸い、みのりを見つめた。
「佐伯さん。あなたの脳は…… “未来”そのものだ」
みのりは、ぽかんとした表情で言った。
「……あの…… 私、そんなにすごいんですか?」
その瞬間、研究室の空気が、再び静まり返った。
高木は、みのりの肩にそっと手を置いた。
「……佐伯。今の君は、想像をはるかに超えているんだよ…」
脳波計の「ピッ……ピッ……」という待機音が、その静寂の中で、やけに大きく聞こえた。
◆ 研究者の理性が崩れる瞬間
静まり返った測定室で、佐野教授は、みのりの顔をじっと見つめた。その視線は、高校生を見ているものではなく、“未知の存在”を前にした研究者の目だった。
「……佐伯さん。あなたは、今までに…こういうこと、何度もあったのですか?」
みのりは、少し考えてから答えた。
「えっと……最近… 授業中に、たまに分かりすぎるときはあります。でも、こんなに速く解けたのは初めてです」
佐野教授は、喉の奥で小さく息を呑んだ。
「分かりすぎる……か。まいったなぁ… 自分も、そういうこと一度でも言ってみたかったよ。……実際、それは脳の処理方法とか処理速度が、常人の範囲を遥かに超えているということだよ」
大学院生が、震える声で言った。
「先生…… これ、論文どころじゃないですよね……?」
佐野教授は、ゆっくりと頷いた。
「うん、そんなレベルじゃない。これは“発見”だ。人類史に残る可能性もある」
高木は、思わず息を呑んだ。
(……人類史……? そんな言葉、軽々しく使う人じゃないはずなのに……)
佐野教授は、脳波計の前に歩み寄った。
「……脳波なんて、測らなくてよかったのかもしれないな…」
大学院生が驚いたように言った。
「えっ……先生……?」
「もし、脳波に異常値が出ていたら…… 私たちは、きっと脳波の異常に気を取られてしまって、本質を見失う可能性があった」
佐野教授は、みのりが解答を出すために途中の計算式などをメモ書きした、計算用紙の方を手に持って言った。
「本質は……これだよ。これを見れば、思考そのものが普通じゃないことが分かる。…だって、佐伯さんがメモしたこのチャラ書き… 普通の人間が通常の流れで書いていったなら、ここに書かれている式の途中に幾つもの式が入るに決まってる。でも、佐伯さんが書いたのは、途中にあるはずの式が書かれてなくて、いくつか先の式まで飛んでいる。要するに、ここに書かれていない式は、佐伯さんの脳内で勝手に高速に処理されてしまっているということだ…」
大学院生が、その言葉を必死に解釈しようとしていた。
「たとえば… ニューロンの跳躍伝導のようなイメ―ジなんでしょうか…」
高木は、震える声で言った。
「……先生…… 佐伯は……どうなるんでしょうか…」
佐野教授は、深く息を吸い、まるで決意を固めるように言った。
「高木先生。この子は… 研究対象としても例のない存在ですけど、研究者として迎えるべきだと思います」
大学院生が、思わず声を上げた。
「飛び入学……ですか?」
佐野教授は、強く頷いた。
「そうです。文科省の制度を使えば可能です。佐伯さんは、充分すぎるほど条件を満たしています。いや……むしろ、この制度は佐伯さんのような人のためにあるのだと言えます」
みのりは、ぽかんとした表情で言った。
「……あの…… 私、大学に行くんですか?」
佐野教授は、優しく微笑んだ。
「行くかどうかは、あなたが決めることですよ。でも……あなたの脳は、ここでこそ輝く。高校では、もはや収まりきらないと思うんです」
高木は、とんでもなく胸が熱くなるのを感じた。
(……佐伯… 君は、本当に…… とんでもない場所に…今立っているんだ……)
佐野教授は、高木に真剣なまなざしで話した。
「高木先生、うちの大学では、佐伯さんの件について、できるだけ早く教授会を開きます。受け入れのほうは、一般的には高校2年生のカリキュラムが終了した翌月の4月になると思いますが…。そして、その前から、当研究室と関わってもらえると嬉しいです」
「は…はい…」
高木は、話の流れから想像はしていたが、それが現実の話になったことに動揺を隠せず、快適な室温に保たれている部屋にも拘らず、額からいくつもの汗が流れ落ちた。
佐野教授は続けた。
「ところで、高木先生の学校は、2年生のうちに物理や化学を含めた理系科目の教科書の範囲は全て終わってしまいますよね?」
「はい、一応…、そのようにカリキュラムは組まれています」
「そうなんですね。それは良かった…。あと、佐伯さんの親御さんにも、この件を伝えて承諾を得ておかなければなりませんので…、教授会で正式に決まったらまた連絡させていただきます」
高木は、丁寧に頭を下げた。
「ありがとうございます…」
◆ 脳が休んでいるときの異常
そのとき、脳波計が突然「ピッ…ピッ…ピッ…」と速く鳴り始めた。大学院生が驚いて振り返る。
「せ、先生! 脳波計…… ちょっと特殊な動きを始めました!」
佐野教授は、頭部に電極を付けたままのみのりを見た。みのりは、目を閉じ、ただ静かに座っていた。だが、モニターには通常ではありえない鋭いスパイクが連続して走っていた。
「……これは…… 休んでいるときの脳波じゃない……」
佐野教授の声が震えた。
「佐伯さん…… あなたの脳は…… 休んでいるときのほうが、活発なのか……?」
高木は、背筋に冷たいものが走った。
(……佐伯… 君の脳は…… いったい……何をしているんだ……)
測定室の空気が、再び張り詰めた。
脳波計のモニターに走った鋭いスパイクは、まるで何かが暴れているように見えた。
大学院生が、震える声で言った。
「せ、先生…… これ……α波でもβ波でも…… どの帯域にも分類できません……」
佐野教授は、モニターに顔を近づけた。
「……振幅が大きすぎる。しかも……周期が一定じゃない。これは……通常の“思考”の波形でもない……」
高木は、喉が乾くのを感じた。
「……じゃあ……何なんですか……?」
佐野教授は、しばらく黙り込んだあと、ゆっくりと口を開いた。
「……もしあるとしたら… かなりたくさんの数のニューロンの活動が同期しているということです。 …それだったら、頭皮の上からでも大きな信号として拾える… いや、しかし… …こんなのは初めて見る………」
佐野教授は、ふと… みのりの方を見た。
「佐伯さん。今……何か考えていましたか?」
みのりは、何と答えればよいのか迷いながら…
「いえ…… ただ…… さっきの問題の別の解き方が、頭の中で勝手に動いてただけで……」
高木は、思わず声を失った。
(……別の解き方……? 今……? でも…さっきの問題用紙や計算用紙を見ているわけでもないのに……)
大学院生は、震える手でメモを取った。
「先生…… これ…… デフォルトモードネットワークの異常活性とでも言えるものでしょうか……」
佐野教授は、静かに言った。
「……“異常”というよりも、“別種”なんだろうね…」
みのりは、不安そうに言った。
「……あの…… 私、何か…… 変なんでしょうか……?」
佐野教授は、みのりの前にしゃがみ込み、優しく首を振った。
「変なんかじゃない。ただ…… あなたの脳は、“普通の人間の枠”に収まっていないだけだ」
高木の背筋には、さらに冷たいものが走った。
(……佐伯… 君は…… いったいどこまで行ってしまうんだ……)
脳波計のスパイクは、まだ止まらない。まるで…… みのりの脳が、外界とは無関係に“何かを計算し続けている”かのように…。
佐野教授は、しばらくモニターを見つめていたが、やがて静かに息を吸い込んだ。
「……ここでは限界だな。もっと“奥”を見に行こう」
高木が驚いたように顔を上げた。
「奥……?」
佐野教授は、決意を固めたように頷いた。
「MEG室です。脳の磁場を測る装置です。脳波よりも、はるかに深い情報が取れるんです」
大学院生が息を呑んだ。
「先生…… あの部屋を使うんですか……? 今日、予約は……」
「空いている。非常時扱いで使わせてもらおう」
佐野教授は、そう言うと、みのりの方へ向き直った。
「佐伯さん。少し場所を移動します。怖くはありませんから、安心してください」
みのりは素直に頷いた。
「はい……」
高木は、みのりの肩にそっと手を添えた。
「佐伯、ゆっくり歩こう。大丈夫だから」
みのりは、小さく微笑んだ。
「はい、先生」
◆ みのりはMEG(magnetoencephalograph;脳磁図)室へと移動
研究棟の奥へと続く廊下は、先ほどまでの測定室とは違い、どこか静まり返った空気が漂っていた。壁には「磁気シールド区域」「立入制限」と書かれたプレートが並んでいる。
みのりは、少し不思議そうに周囲を見回した。
「……なんだか、病院みたいですね」
高木は苦笑した。
「まぁ……似てるところはあるな」
佐野教授は、歩きながら説明した。
「ここは、外部の磁気を完全に遮断した部屋です。脳が生み出す“微弱な磁場”を測るためには、外のノイズを全部消す必要があるんです」
みのりは、少しだけ緊張したように言った。
「……そんなに小さいんですね、脳の磁場って」
「そう。地球の磁場の、何億分の一だよ」
みのりは目を丸くした。
「そんな小さいものが……測れるんですね…」
「測れるんですよ…。 …でも、佐伯さん、あなたの受け答え… 高校生のレベルを完全に超えてますね。宇宙のこととかも好きですか?」
佐野教授は、嬉しそうな表情で、みのりに尋ねた。
「はい。かなり好きです(笑)」
みのりは、無邪気そうな笑顔で答えた。
やがて、厚い金属扉の前にたどり着いた。扉には「MEG室 磁気シールドルーム」と書かれている。大学院生が操作パネルにカードをかざすと、扉がゆっくりと開いた。
「ゴウンンン……」
低い音が廊下に響く。厚い防磁扉がゆっくりと開くと、その奥には、まるで別世界のような空間が広がっていた。白く、静かで、どこか“音が吸い込まれていく”ような感覚。そして──部屋の奥に鎮座する巨大な装置。
みのりは思わず足を止めた。
「……これ……」
高木は、みのりの横で小さく息を呑んだ。
(……でかい…… これが……MEG……)
佐野教授は、装置に手を添えながら説明した。
「これが MEG装置です。脳が生み出す“磁場”を測るためのものです。頭をこのドームの中に入れて、脳の活動を立体的に捉えるんです」
みのりは、巨大な装置を見上げた。その表面は滑らかで、光を柔らかく反射している。まるで──“未来の機械”そのもの。
大学院生が、その下部にある椅子の方へと、みのりを誘導した。
「佐伯さん、こちらに座ってください。頭の位置を合わせますので」
みのりは、少し緊張した様子で椅子に腰を下ろした。椅子はゆっくりと電動で上昇し、巨大な白いドームの下へと近づいていく。みのりの頭が、ドームの内部に吸い込まれるように入っていく。内部は意外にも広く、ほんのりと温かい空気が流れていた。
みのりは、目を閉じた。
(……なんだろう…… 包まれてるみたい……)
大学院生が、慎重に位置を微調整する。
「はい……そのまま…… 頭を少しだけ前に…… そうです……」
巨大なドームが、みのりの頭をすっぽりと覆った。
高木は、その光景に息を呑んだ。
(……佐伯… 君は今、本当に…… 未知の領域に踏み込んでいるんだ……)
佐野教授は、観察室へ向かう前に、もう一度だけみのりの方を見て微笑んだ。
「佐伯さん。痛みなどは何もありませんので、安心して座っていてもらうだけでいいですよ」
「はい……」
みのりの声は、未知の体験に、ちょっと楽しそうな雰囲気であった。
佐野教授は、静かに言った。
「……では、準備を始めましょう」
厚い防磁扉が閉まる。
「ゴウンンン……」
低い音が響き、MEG室は完全な静寂に包まれた。
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