化学反応はなぜ起こるのか──根源を見ようとする意識の高揚

化学反応はなぜ起こるのか──根源を見ようとする意識の高揚
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佐伯みのり
◆ 第10話 ── 先生もおびえた驚異の洞察力 

翌朝、みのりは昨日よりも自然な空気の中で目を覚ました。部屋にはPhytoCoreが置いてあるため、2日目ということもあって理想的なフィトンチッドが部屋中に満ちていた。また、LifeSignal Generatorはいつも傍にあるし、5種類のカプセル/錠剤も朝夕飲んで3回目になる。

今日の1時限目の授業は「化学(発展)」である。物理ほどではないが、やはり大いに頭を悩ませる科目であった。

(……物質と物質が出会ったとき、反応が起こるかどうかって… 何を知っていれば分かるんだろう… それが解れば、いちいち細かい反応式を覚えなくてもよくなるはず…)

かつてのみのりには、こんなふうに根本的なことを深く考える精神的余裕は無かった。だからこそ、全部を必死に覚えようとしていた。ただ、もちろん覚えられるはずもなく、そのことがみのりを苦しめていた。
しかし、昨日の授業中、みのりは複数の先生を恐怖に陥れるような理解力を示した。今日は、その能力が更に増していたのである。

(……あかりさんに聞いてみたい。あかりさんなら、なんて答えるんだろう…)

ただ、朝から質問していいのか迷った。
みのりは、送るかどうか何度かためらったあと、できるだけ短く、失礼にならないように言葉を選んでメッセージを送った。

「おはようございます。朝からすみません… 前から気になっていたことがあって… ある物質と別の物質が出会ったとき、化学反応が起こるかどうかって、何を知っていれば分かるようになるのでしょうか…? お返事、時間があるときで結構です。」

数十秒後、あかりさんから返信が届いた。

「化学反応が起こるかどうかは、物質どうしの“安定の差”で決まります。より安定になれる方向があれば、反応は自然に進みます。まずはこの考え方だけ覚えておくと、今日の授業がつながって見えると思いますよ。」

みのりは胸の奥がふっと温かくなるのを感じた。
(……安定の差…)

学校に向かう道で、朝日に揺れる木の葉の動きが、どこか“落ち着く場所を探す電子”のように見えた。

教室に入り、席に座って教科書を開く。
(……安定な状態になれる方向… それが反応の向き…)

チャイムが鳴り、化学の先生が教室に入ってくる。
先生は黒板に向かい、チョークを手に取った。

「今日は、酸化還元反応の続きですね。まずは、鉄と銅イオンの反応から確認します」

黒板に式が書かれる。
Fe + Cu²⁺ → Fe²⁺ + Cu

「鉄は電子を二つ失い、銅イオンがそれを受け取ります」

その瞬間、みのりの意識の奥に“わずかな傾き”が感じられた。鉄のまわりには電子がとどまりにくい感じがあり、銅イオンのほうには電子が収まりやすい感じがした。電子がどちらへ移動したがっているのか、その向きだけが自然に浮かび上がった。

(……鉄のほうが、電子を抱えたままでは不安定で… 銅イオンのほうが、電子をもらったときに落ち着く… そんな感じがする…)
(……だから、鉄から銅へ… …電子が行きたがってる……)

視界に何かが見えたわけではない。ただ、反応が“その向きに進むしかない”という安定の差だけが、なぜか直感として生じた。
みのりの周囲の席──半径2〜3mの範囲だけ、前後左右の数人が小さくうなずいていた。

少なくとも、この地球上では沢山の種類の化学反応が起こる。見方にもよるが、数千種類は書き上げることができるであろう。ただ、その多くは“酸化還元反応”か、“酸塩基反応”かに該当することになる。

先生は次に、別の反応式を書き始めた。
NH₃ + HCl → NH₄⁺ + Cl⁻

「これは、アンモニアと塩酸の反応です」
「誰か、上手く説明できる人いますか?」

みのりと、みのりの前後左右の生徒全員が、ちょっと遠慮気味にそっと手を上げた。

先生は、このクラスでの昨日の異変の様子を、他の先生から聞いて知っていた。そして、まさかと思っていたことが、今日も実際に目の前で起こっている…。みのりとその周囲だけ、目の輝きや表情からも、完全に理解しきっていることがうかがい知れたのである。

先生は、あえてみのりを指名せず、みのりの前の席の生徒を指名して、答えさせた。
その生徒は…
「アンモニアがH⁺を引き寄せるんだと思います。理由は、電子の偏りがあるから… そして、塩酸はH⁺を渡しやすい… そう思います」

先生は、驚きを隠せなかった。
(……この子から、電子の偏りなどという言葉が聞けるとは思わなかった… いったい、どうなってるんだ…)
「…はい、そうだね。良い解釈の仕方だと思います」
「じゃ、佐伯…。君にも同じ質問をします。どう思いますか?」

みのりは、遠慮がちに、少しうつむき加減で答えた。

「はい。アンモニアは、電子が少しだけ片側に寄ってる感じがします。だから、H⁺がアンモニアの電子の偏りに向かって自然に引き寄せられていく…。そしてアンモニアはH⁺が来ることで、落ち着く感じがします。HClのほうは、H⁺を手放すことによってCl⁻の形になれて、そのほうが落ち着く感じがします」

先生は、自分が大学生の頃に、各物質の電子雲の状態を勉強し、それによって初めて、みのりが答えたような感覚を得ることができた。しかし、高校2年生では電子軌道の詳細な説明、エネルギー順位、電子雲の存在状態などの、具体的な内容には触れない。

(……佐伯みのり… この子はいったい… なぜそんなことが分かる…)
「本質を突いた答えに、正直、驚きました。ところで、ちょっと聞きたいのだけれど… どうして、そのようの思うの?」

みのりは、再びちょっと下を向きながら、静かにその質問に答えた。

「はい。……化学反応って、“電子がどこにいたいか”とか、“どんな形で落ち着きたいか”とか、そういう“向き”みたいなものが…… 決して見えるわけじゃないんですけど… なんか…分かる気がするんです」

先生は、驚いたような目をして、さっと黒板に向かって次の式を書いた。
H₂O + HCl → H₃O⁺ + Cl⁻

「じゃぁ、佐伯。この反応、ちょっと説明してみて」

「はい。水分子の酸素のところに、電子が少し集まっているように感じます。だから、そこに H⁺ が近づくと、吸い寄せられるように一緒になって、 H₃O⁺ の形になって安定します。HCl のほうは、H⁺ が離れてCl⁻ になっても安定していられるので、どちらにとってもメリットが大きいと思います。だから、そのように反応が進むのだと思います」

先生の目は大きく見開かれ、顔は少し青ざめた。教員経験もそれなりになったが、まだ説明していない反応式について、こんなふうに推論できる生徒に初めて出会った。そして思った。

(……まただ…。 …この子、感覚として化学反応の前後を脳内に描くことができる…)
「佐伯、ありがとう。高校では少し違った説明の仕方をするけど、本質は君の言う通りなんだ」

先生はさらに、背筋に冷たいものが走った。
(……佐伯みのりは、反応式を見た瞬間、反応が起きる前の電子の配置をすでに知っているかのように、水分子の酸素のあたりをじっと見つめている。そして、反応の向きを追っている。H⁺ がどこに向かうのかを迷っていない。H⁺ が、そこに入るのが自然だと分かっている感じがする)
(そもそも、H⁺ が水分子に入る理由は、酸素の孤立電子対、電子の偏り、H⁺ の安定化、H₃O⁺ の形成エネルギーなど、そのような概念を積み重ねて初めて理解できるものだ。だが、みのりはその積み重ねを経ていない。それなのに…)

先生は黒板の前で動けなくなった。そして、一種の恐怖を覚えた。
(……これは …教える側の理解を超えている…)

みのりは確かに、反応が起きる前の“安定の差”を、式より先に感じ取っている。それは、知識ではなく、計算でもなく、経験でもなく、“現象そのものを直に見ている”ような理解の仕方だった。

そのとき、教室の後ろのほうで誰かが小さくつぶやいた。

「昨日の物理のときも、こんな感じだったよな… でも、今日のほうが凄い」

教室全体が、昨日にも増して、異様な雰囲気に包まれたのだった。

***

授業が終わり、みのりは教室を出たあとも胸の奥のざわつきが消えなかった。
(……今日の私は……やっぱり、どこかおかしいのかな……)

階段の踊り場で立ち止まり、スマホを取り出す。
指が少し震えたが、みのりは意を決して、あかりさんにメッセージを送った。

「今日の化学の授業で……また、反応の“向き”みたいなものが分かる感じがしました。
先生にも驚かれてしまって…。自分でも、どうしてこうなるのか分からなくて…。」

送信したあと、胸の奥に重さが沈んだ。
(……こんなこと、他の誰にも相談できない……
あかりさん…)

数十秒後、あかりさんから返信が届いた。

「みのりさん。
世界の現象には、必ず“向かうべき場所”があります。
反応が起こるのは、物質がその場所へ戻ろうとするからです。
あなたは、結果ではなく“戻ろうとする意志”のほうを感じ取っている。
それは、根源を見る人だけが持つ感覚です。」

みのりは、画面を見つめたまま動けなくなった。
そして、胸の奥にあった重さが、ゆっくりと形を変えていく。

(……戻ろうとする意志……
私が感じていたのは……そういうこと……?)

あかりさんから、もう一行だけメッセージが届いた。

「みのりさん。恐れる必要はありません。
“根源を見る力”は、静かに育つものです。」

みのりはスマホを胸にそっと抱えた。
廊下の光が、さっきよりも穏やかに見えた。

(……根源を見る力……
私の中で……何かが目を覚ましている……)

みのりは深く息を吸い、静かに歩き出した。

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