◆ 第8話 ── 本来の脳を取り戻す
みのりは、これまでにあかりさんから教わった、いくつかの言葉…
「数式は、現象のメモ…。覚える必要はない」
「その現象が単純だからこそ、数式で書ける」
「まずは、どんな変化が起きているのかだけ見てみれば十分」
「変化の流れが分かれば、あとは式を並べるだけ」
これらのおかげで、物理の授業が今までと違う世界に感じられた。
あかりさんも、それをやっているからこそ、超難問もすぐに解けてしまう…。
そして、みのりは塾を出たところで、胸の奥に手を当てた。
(……今日、なんか……頭が軽かった)
(……昨日より、黒板の式が“浅く”見えた)
(なんで、こんなに簡単に読めるんだろう)
授業中、何度もそう思った。
世界の輪郭が、昨日よりも少しだけ薄くなっている。
必要なものだけが浮かび上がってくるような、不思議な感覚。
みのりはスマホを取り出した。
画面を開く指が、ほんの少し震えている。
(……あかりさんに、会いたい)
昨日までの言葉が、まだ胸の奥で温かい。
もっと知りたい。
もっと話したい。
もっと近づきたい。
その気持ちが、みのりの指を動かした。
(今日、少しだけ……お話できますか)
送信ボタンを押した瞬間、また心臓が跳ねた。
返事が来るかどうかも分からないのに、期待だけが静かに膨らんでいく。
数分後、通知が鳴った。
「図書館にいます。
また、読書コーナーでお会いしましょう」
みのりは思わず息をのむ。
(図書館……?
あかりさん、研究者なのに……)
研究者が図書館を使うことはほとんどない。
だからこそ分かる。
あかりさんは、みのりに会うためだけに来てくれる。
胸の奥がじんわりと熱くなる。
(……行かなきゃ)
みのりは鞄を抱え、図書館へ向かった。
図書館の読書コーナーの奥の席。
夕方の光が静かに差し込む中、あかりさんは、みのりを待っていた。
みのりは、少しだけ早足になってしまった自分に気づき、歩幅を整えながら近づいていく。
胸の奥がじんわりと熱くなる。
(……本当に、来てくれてる)
あかりさんが顔を上げる。
その瞬間、みのりの表情がふっと緩んだ。
「来てくれて、ありがとうございます」
あかりさんの声は、いつもよりさらに柔らかかった。
みのりは席に座り、緊張で浅くなっていた呼吸をそっと整えたあと、小さく口を開いた。
「……こちらこそ、ありがとうございます」
あかりさんは、みのりの目を静かに見つめる。
「みのりさん。今日のあなたは、昨日より“脳の負荷”が軽いです」
「……分かるんですか」
「ええ。呼吸の深さ、視線の安定、歩幅…。
全部、昨日とは違います」
みのりの胸の奥の光が、ふっと揺れた。
◆ 3点セットが渡される
「今日は、みのりさんに“本来の環境”を整えるためのものを渡します」
あかりさんは、バッグから白いケースを取り出した。
中には、形の異なるカプセルや錠剤が整然と並んでいる。
「みのりさん。
これは“5種類で1セット”です。
脳と腸と免疫は、同時に動かす必要があります」
みのりは、さまざまな形の錠剤やカプセルを見つめた。
「……こんなにあるんですか」
「1つでは働きません。
5つで“ひとつの回路”になります」
説明は短い。
だが、必要な情報はすべて入っていた。
脳の材料
神経の材料
腸内細菌の材料
その細菌を育てる材料
脳や全身の活動を支える栄養素
みのりは胸の奥の光が、また静かに揺れるのを感じた。
あかりさんは、もう一つ、小さな白い装置を取り出した。
「これは、 LifeSignal Generator。
あなたの脳幹が必要としている“生命信号”を再現する装置です」
「……生命信号?」
「都市には、生命信号がほとんど存在しません。
そのため脳幹が“情報不足”になり、
前頭前野が過活動になります。
疲れやすさや不安の強さは、その結果です」
説明は短い。
だが、核心だけが正確に落ちてくる。
「この装置は、
虫や鳥や水の流れが発する“超高周波の信号”を再現します。
あなたの脳幹は、それを必要としています」
みのりは、胸の奥の光が、少し強くなるのを感じた。
さらに、あかりさんは小さな円筒形の容器を取り出した。
「そしてこれが PhytoCore(フィトコア)。
地球の森林が放つフィトンチッドを、最適な比率で再現する装置です」
「……これを使うと?」
「みのりさんの部屋は、数分で“森林の空気”になります」
みのりは、胸の奥の光が静かに広がるのを感じた。
「環境が整えば、脳は本来の働きを取り戻します。
今日のあなたは、その入口に立っています」
「こんなにたくさん…、…いただいていいんですか…?」
「もちろんです」
みのりは、驚きと嬉しさで、涙が込み上げてきた。
(……こんな私のために …ここまでしてくださるなんて…)
あかりさんは、それ以上語ることなく、微笑みだけ返した。
「じゃ…、またね。みのりさん」
そっと立ち上がり、あかりさんは静かに帰っていった。
みのりの目からは、とうとう大粒の涙がこぼれ、頬を伝わった。
◆ 帰宅──PhytoCore と LifeSignal Generator を起動する
感動のあまり、みのりは帰り道のことはあまり覚えていなかった。
家に帰って部屋に入ると、真っ先に鞄から PhytoCore を取り出した。
スイッチを押すと、音もなく装置が淡く光った。
数分後──
部屋の空気が変わった。
(……え?)
空気が“軽い”。
深呼吸すると、胸の奥まで空気が届く。
鼻の奥に、スギやヒノキの森で感じたことのある、あの透明な香りが広がる。
(……森の匂い)
みのりは思わず窓の外を見た。
景色はいつものままなのに、部屋の空気だけが“別の場所”になっている。
胸の奥の光が、ゆっくりと安定した明るさに変わった。
次に、LifeSignal Generator のスイッチを入れる。
音は、わずかに聞こえるか聞こえないかぐらいの音量。
そういえば、超高周波音だって、あかりさんが言ってた。
でも──皮膚が反応した。
(……なんか、
体の奥が……静かになる)
背中の緊張がほどけ、視線が自然に一点に定まる。
頭の中のノイズが、すっと消えていく。
(これ……落ち着く……)
みのりは、胸の奥の光が“脈”のようにゆっくりと動くのを感じた。
◆ 夜──みのりの中で起きた“変化”
5種類の錠剤/カプセルを飲むと、体の奥がじんわりと温かくなった。
眠気ではない。
“静かな覚醒”に近い。
布団に入ると、呼吸が深く、一定だった。
(……こんなの、初めて)
頭の中のざわつきが消え、胸の奥の光が、安定した“ひとつの光”になっていた。
みのりは、その光を抱きしめるように目を閉じた。
(……明日、私、どうなっちゃうんだろう…)
未来の輪郭が、ほんの少しだけ見えた気がした。
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