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◆ 第19話 ── 低重力・居住区・EVAスーツのすべて
金曜日の夜――みのりは、机の上に広げたノートを閉じ、ベッドの上に腰を下ろした。明日の午後は、もう進学塾には行く必要がなくなったので、予定は特に無かった。ただ、胸の奥には、昨日から続くざわつきがまだ残っていた。
(……飛び入学… …研究室… あかりさん……)
そのとき、スマホが震えた。画面には、あかりさんの名前。みのりの心臓が、少しだけ跳ねた。
『みのりさん。こんばんは。明日の土曜の午後、少しお時間いただけますか。体験していただきたいことがあります。もしよければ、高校の正門の近くまで迎えに行きますね』
みのりは、思わず息を呑んだ。
(……体験……? あかりさんが言う“体験”って…… たぶん…普通じゃない……)
指が震えながら、返信を打つ。
『こんばんは。はい、大丈夫です。土曜日は学校での講座が12:30頃に終わりますので、12:40には正門に行けます』
『わかりました。では、12:40に高校の正門の近くでお待ちしていますね。お昼は私がご一緒します。お母様には、帰宅が夕方になるとお伝えください』
『はい。ありがとうございます。すごく楽しみです!』
送信ボタンを押したあと、みのりはスマホを胸に抱きしめた。
(……明日…何が起きるんだろう…… なんだか…眠れないかも……)
部屋の灯りを消すと、暗闇の中に未来の光が差し込むような感じがした。
◆ 待ち遠しかった土曜の午後
午前中の講座は、いつもより少しだけ長く感じた。授業内容は相変わらず素直に頭に入ってくるが、心のどこかはずっと“12:40”のほうを向いていた。
(……あと少し…… 終わったら……あかりさんに会える……)
時計の針が12:30を指した瞬間、教室の空気がふっと緩んだ。先生の授業終了の声と同時に、クラスメイトたちが一斉に荷物をまとめ始める。みのりも急いでノートを閉じ、筆箱をしまい、カバンを肩にかけた。
(……やっときた… この時間… ……すごくドキドキする…)
昇降口で靴を履き替え、校舎を出ると、昼下がりの光が校庭に広がっていた。正門へ向かう足取りは、自然と少しだけ速くなった。
(……ちょっと早いけど… 待っておこう…)
正門の前に出ると、淡いブルーのフィアット500eが、音もなく静かに停まった。運転席の窓がゆっくりと開き、あかりさんが柔らかく微笑んだ。
「みのりさん! …お疲れさま。私も、ちょっと早めに着いちゃいました」
みのりの胸が、きゅっと熱くなる。
「……あかりさん……こんにちは。…あの… 今日は、よろしくお願いします」
「こちらこそ。まずはお昼にしましょう。午前中の講座で、お腹すきましたよね」
その言葉に、みのりは思わず小さく笑ってしまった。
「……はい。ちょっとだけ……」
「では、乗ってください」
みのりは頷き、小さくて可愛いEVのドアをそっと開けた。 胸の奥では、未来の扉がそっと開いたような気がした。
◆ あかりさんとの初めてのドライブ
フィアット500eは、高校の正門を離れ、街の中心部へ向かった。街中では、昼下がりの光がフロントガラスに柔らかく反射していた。
「みのりさん…、何か食べたいものはありますか?」
「えっ… あ、あの… …なんでも大丈夫です…」
「では、軽めのものにしましょう。そのあと、少し動きますから」
クルマが止まったのは、落ち着いた雰囲気の小さなカフェだった。みのりはパスタを、あかりさんはサラダを注文した。
食事をしながら、あかりさんは、みのりの心境を確認した。
「飛び入学のこと…不安はありますか?」
「…少しだけ。でも…楽しみのほうが大きいです」
「それはよかったです。未来は、不安と楽しみの両方があるのが自然ですからね…」
その言葉に、みのりの胸がふっと軽くなった。
◆ いよいよ目的の場所へ
食事を終え、再びフィアット500eに乗り込む。EV特有の静かな加速が、みのりの緊張を少しずつ溶かしていく。
(……あかりさんに似合う…このクルマ… 可愛くて… 静かで… カッコいい… )
「これから向かう場所は、みのりさんにとって特別な場所になります」
「……特別…ですか…?」
「はい。みのりさんの未来に、きっと関わる場所です」
あかりさんは、それ以上は説明しなかった。でも、その沈黙が逆に期待を膨らませた。
窓の外の景色が、街並みから、大学の周囲の緑へと変わっていく。
(……未来に関わる場所… いったい…どこなんだろう…)
車はゆっくりと大学の正門をくぐった。みのりは思わず声を漏らす。
「…えっ?! この前来た大学…」
あかりさんは微笑んだ。
「はい。私たちの研究室は、この大学と共同研究をしているんです。今日は、その研究棟の奥へご案内しますね」
(……今度は… ……あかりさんに連れられて…ここに来るなんて…)
みのりは、ただならぬ運命のようなものを感じた。
土曜の午後で、穏やかになったキャンパスは、風が木々をそっと揺らしていた。二人は研究棟に入り、薄暗い廊下を進むと、普段は学生が近づかない区画へと足を踏み入れた。
あかりさんが、一枚の扉の前で立ち止まる。
「みのりさん。ここから先は… 少し未来の世界なんですよ」
扉が静かに開くと、その中は、天井が通常よりも高くて、二十数畳ほどの広さの部屋だった。そして、その奥には、直径が約4m、高さが約3mほどの、火星環境没入モジュール「M-HIM」が、淡い光をまとって佇んでいた。部屋はむしろ、その装置のためだけに用意された特別な空間のようだった。
みのりは、プレートに書かれている文字を読み上げた。
「M-HIM ――Mars Habitat Immersive Module」
あかりさんが、みのりの横で小さく頷いた。
「みのりさん。これが、あなたに体験していただきたいものなんです」
装置の表面は滑らかで、金属ともガラスともつかない質感。触れれば冷たそうなのに、どこか、生きているような気配があった。
みのりは、声にならない声を漏らした。
「……これ… いったい…なんですか…?」
あかりさんは操作パネルの前に立ち、指先で静かに数カ所をタップした。その瞬間──M-HIM の起動に伴う微細な振動と空気の変化が、装置の外側にまでわずかに伝わってくる感じがした。
「では、起動シーケンス…、開始します」
あかりさんの声は、いつもより少しだけ厳かだった。
M-HIM の外殻に沿って、細い光のラインがゆっくりと走り始めた。青白い光が、赤へ、そして橙へと変化していった。
みのりの影が、その光に照らされて長く伸びた。
「……あかりさん… これ…動いてるんですか?」
「はい。環境同期システムが立ち上がっています。これから、この内部を、火星の大気・光・重力に近づけていきます」
光がさらに強くなり、部屋の温度がほんの少し下がった感じがした。そのとき、みのりの髪が、静電気のようにふわりと揺れた。
(……なんだろう…… 胸が…ドキドキする……)
装置の前面パネルが、ゆっくりと透明化していく。そして、その奥に見える広い面積の窓の向こうには、赤茶けた地平線と、遠くには低い丘が連なっており、まさしく火星の大地が広がっていた。
みのりは思わず一歩前へ出る。
「……もしかして… 窓の向こうに見える景色… 火星ですか?」
あかりさんは、みのりの横顔を見つめながら静かに微笑んだ。
「はい。あなたが、いつか立つかもしれない場所です」
その言葉が、みのりの胸の奥に深く沈んでいく。M-HIM の内部からは、風のような低い音が流れ出した。そして、赤い光が、みのりの頬をそっと染めた。
あかりさんが、そっと手を差し出す。透明化したM-HIM の前面パネルが横に開いた。
「みのりさん。どうぞ…中へ…」
みのりは、その手を見つめ、ゆっくりと中に入った。
◆ 人生で初めての火星模擬体験
<1> 低重力体験
M-HIM の内部に足を踏み入れた瞬間、みのりは思わず立ち止まった。床は金属のようでいて柔らかく、空気はほんの少し乾いている。そして、身体が、ふわりと軽くなった。
「…えっ?」
足を上げると、いつもより軽く持ち上がった。
あかりさんが、そっと説明する。
「今は、地球の重力の 0.38倍 に設定しています。火星の重力とほぼ同じ感覚を体験できるんです」
「0.38…? …でも、どうやってそれを実現しているんですか?」
あかりさんは、みのりの、その科学者的な質問に少し驚きながら、やや専門的な回答をしてみた。
「みのりさん。この“軽さ”は、一つの仕組みだけで作っているわけではなくて、いくつもの技術を組み合わせることで、火星の重力の感じを再現しているんです」
みのりは、少し目を丸くし、息を呑んだ。
(……だから、足が軽く感じるのか……)
あかりさんは、指を折りながら静かに説明を続けた。
「まず、床の反力を調整しています。踏み込んだときの“押し返す力”を地球の三八%にしているんです」
「…それから、体全体を、ほんの少しだけ上方向へと支える微弱な磁場を作り出しているんです。それによって、身体がふわっと浮く感覚を作っています」
(……確かに… 浮いてるみたい……)
「空気も、地球より少しだけ乾燥させています。その分、空気抵抗が減りますので、動きが軽く感じられるんですよ」
「…乾燥させると… 軽く感じるんですね…」
「視覚も重要です。跳んだときの影の伸び方や、着地の砂の舞い方を補正して、脳が“これは低重力だ”と自然に認識するようにしています」
「……だから… 本当に火星にいるみたいに……」
「はい…。その他にも、内耳に微弱刺激を与えています。それによって、平衡感覚に“軽い浮遊感”が加わりますので、身体の重さそのものが変わったように感じられます」
みのりは、胸の奥がじんと熱くなるのを感じた。
(……そんなにたくさんの仕組みで…… …でも… それを、あかりさんが考えて作ってる…? もし…そうだとしたら… あかりさんって本当にすごい人…)
あかりさんは優しく言った。
「このようなものを組み合わせることで、地上にて0.38Gの感覚を再現できるようになりました。本来、地球にいながら低重力を作るには、航空機の急降下を利用する方法しかありませんでした。でも、こうして複数の技術を統合することで、低重力を体験できるようにしたのです」
みのりは、恐る恐るその場で軽く跳んでみた。
ぴょん。
「……わっ!」
いつもの倍以上に、身体がふわりと浮き上がった感じがした。
――もう一度 ぴょん。
「……すごい! 軽い!!」
あかりさんは、みのりの無邪気な跳ね方を見て、静かに微笑んだ。
「火星では、人工的に重力が高められていないかぎり、人はこんなふうな低重力下で歩くことになります」
みのりは、もう一度…… 今度は少し強めに跳んだ。
ぴょ~ん── ふわり。
「わぁ~ 空を飛んでるみたい! おもしろーい!!」
その後も、我を忘れて、みのりは何度もジャンプした。その光景は、驚きと喜びが混ざった、純粋な子どものようだった。
<2> 居住区体験
みのりが低重力で遊んでいると、あかりさんが再び操作パネルに触れた。
「では……人が住む居住区の内部に、みのりさんが居るような景色に変えますね」
その瞬間、外の火星の大地の上に、巨大な透明ドームが覆いかぶさるように現れた。そして、淡い光のラインが走り、未来的な複数の設備が姿を現した。それは、酸素生成ユニット、水再生モジュール、太陽光発電システム、小型の植物栽培ポッド、白いパネルで構成された生活区画、などであった。
これによって、みのりは居住区の中央に立っている感覚になった。
(……本当に… 今… ここに住んでいるみたい……)
プラネタリウムとか、科学館などに設置されている投影型の設備とは全く異次元のリアルさで、どう見てもそこが実際の火星であり、人が住む居住区の一角に自分が立っているとしか思えなかった。
<3> 火星の地面を歩く体験
そのとき、あかりさんが再び操作パネルに指を滑らせた。
「みのりさん。次は、外に出てみましょう」
そう言うと、あかりさんは隣のラックから、白とグレーの簡易スーツを取り出した。
「実際の火星で作業するには宇宙服が必要ですが…、地球の重力では重すぎて着られませんので、これは船外活動用宇宙服を模した“EVAトレーニングスーツ(軽量型)”です」
みのりは目を丸くした。そのスーツは本物の宇宙服よりずっと軽く、背中のバックパックも驚くほど軽かった。
「視界の狭さや、関節の動きの制限は、本物と同じように再現しています。酸素や気圧は地球と同じままなので安心してくださいね」
あかりさんは、みのりの肩にそっと手を添え、軽量ヘルメットをかぶせた。透明なバイザー越しに、みのりの呼吸音がわずかに反響する。
(……これ……本物の宇宙服みたい…… でも、ちゃんと動ける……)
手には厚みのあるグローブ。ただ…指先の感覚が少し鈍くなる。
「では、ゲートを開きますね」
あかりさんが操作すると、居住区の外へ続く通路がゆっくりと光を帯びた。
みのりは、ごくりと息を飲んだ。
(……本当に……外に出るみたい……)
みのりは、光に満ちた通路を一歩ずつ進んだ。実際には数歩の距離なのに、視界の中では長いエアロックを抜けていくように見えた。
──通路の先がふっと開けた。足元には、赤茶けた砂の地面が広がっていた。風は吹いていないのに、空気がどこか乾いていて、音が吸い込まれるような静けさがあった。
みのりは、そっと片足を前に出した。
ザクッ。
思わず息を呑む。砂が、地球の砂よりもわずかに軽く、でも確かに重さを支えている感触が足裏に伝わる。
(……これ……本当に火星の砂みたい…… 地球の砂より、少しだけ乾いてて…… 踏み込んだときの沈み方が違う……)
もう一歩。
ザク……
音が小さい。砂が湿っていないから、粒同士がほとんど絡まない。そのせいで、足音が驚くほど静かだ。
あかりさんが、みのりの横に立って説明した。
「火星の砂は“レゴリス”と呼ばれる細かい鉱物の粉で、地球の砂よりもずっと乾燥していて、音を吸収しやすいんです。踏み込んだときの沈み込みも、地球とは少し違います。そして、このブーツには、実際の火星の砂の上を歩いている感触が得られるような工夫がしてあります」
みのりは、足元を見つめたまま小さくうなずいた。
(……本当に……外に出てるみたい…… 空気の匂いまで違う気がする……)
EVAトレーニングスーツの関節が、動きをほんの少しだけ鈍らせる。ヘルメット越しの視界は少し狭い。そのわずかな不自由さが、逆にリアルだった。
みのりは、もう一歩、ゆっくりと砂を踏みしめた。
ザク……
遠くの丘が、静かに淡い光を受けている。空は薄いピンク色で、どこまでも高く、どこまでも静かだった。
(……ここが……火星…… 今……火星を歩いてるんだ……)
みのりは、胸の奥がじんと熱くなるのを感じた。
(……私…… 将来…こんな場所に……立てるのかな……)
そのとき──あかりさんが、みのりの肩にそっと手を置いた。
「みのりさん。あなたは、ここに立てますよ」
みのりは、ゆっくりと振り返った。あかりさんの瞳は、火星の赤い光を映して、どこまでも静かで、どこまでも優しかった。
「あなたの脳は、この環境に“適応できる”と判断しています。重力、光、空気…… すべてに対して、恐怖反応が出ていません」
「……私…… 火星に……行けます……?」
「はい。“行ける人”の反応です」
その言葉が、みのりの胸の奥に深く沈み、静かに広がっていった。みのりは、もう一度だけ足元の砂を踏みしめた。ザク……と小さな音が、火星の静けさの中に溶けていった。
(……大学で頑張れば…… 本当に……火星に立てるのかも……)
みのりは、胸の奥に灯った小さな光を、そっと抱きしめた。そして、その確信だけが、胸の奥で静かに灯り続けていた。
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