4万年の響きと、ひとりの若い演奏者

4万年の響きと、ひとりの若い演奏者
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今回のアイキャッチ画像(高解像度版)
佐伯みのり
◆ 第33話 ── 音楽と脳の進化を追う研究者たち

◆ 高原教授と佐野教授 ――夕暮れの研究棟にて
諸々の雑務を終え、窓の外に夕暮れが迫ってきたころ、高原教授は肩に少し重さを感じながら、内線ボタンを押した。

「はい、佐野です」

「ぶつりーずの高原です」

一瞬の沈黙のあと、受話器の向こうで吹き出す声がした。
「ぷぷっ…… あはははは……先生……そうきましたか…(笑)」

「いやぁ、ちょっと言ってみたくなってね」

「そのネーミング、学生たちが聞いたら絶対に広まりますよ(笑)」

「それは困るなぁ……あはは。 …ところで… まあ、特に急用というわけじゃないんだけど……今、時間よろしい?」

「はい、大丈夫ですよ」

「じゃ、私、先生の部屋に行きますね」

「…わかりました。お待ちしています」

高原教授は、机の上の資料を軽く整え、ゆっくりと立ち上がった。
夕方の研究棟は、昼間の喧騒が嘘のように落ち着いていて、廊下を歩くと靴音が柔らかく響いた。

佐野研究室のドアをノックすると、
「どうぞー」と、いつもの穏やかな声が返ってきた。

ドアを開けると、佐野教授はモニターに映るMEGの波形を眺めていた。しかし、高原教授の姿を見ると、すぐに椅子を回して笑顔を向けた。
「先生、今日もお疲れさまです」

「いやぁ……疲れたよ。今日は書類が多くてね」

「わかります。僕も、午後はずっと報告書の修正作業でした」

高原教授は、ソファに腰を下ろしながら、ふっと息を吐いた。
「……それでね、佐野先生…。例の店での演奏……あれ、どう思いました? もちろん、佐野先生のキーボードの腕にも、びっくり仰天でしたけどね…(笑)」

「何をおっしゃいますか… それよりも、高原先生がエリッククラプトンに見えましたよ(笑)」

高原教授は、思い出すように呟いた。
「…あのときの自分… 今思い出しても不思議なんだよね… なんか…出来過ぎだって…」

佐野教授も頷きながら答えた。
「…そうなんですよ。…私も、あんなふうに演奏できたこと、自分でも驚いているんです…」

二人は視線を合わせて笑った。そして、高原教授がぼそっと言った。
「……もしかして… 水瀬さんに呪文でもかけられたんじゃないかって…」

「そういえば… 佐伯みのりさんを、短期間に、あのように変貌させてしまったらしいですからね… それ、あり得ますよ…」

二人は、今度は目を大きく見開きながら視線を合わせた。
そのあと、佐野教授が切り出した。
「……その、佐伯みのりさん…。 …あの子の演奏、凄かったですね」

高原教授は、静かに頷いた。
「うん、凄かった…。…あの即興の速さ、あの表現力…… あれは、ただの上手い高校生じゃないね。脳のネットワークそのものが違うと思う…」

佐野教授は、少し前のめりになった。
「高木くんが整備してくれたプロトコル、覚えてますよね? あれを使えば、みのりさんの演奏中の脳活動…… かなり綺麗に撮れると思いますよ」

「あぁ… そっかぁ… そうだよね…。あれ、活かせそうだね」

二人の教授は、夕暮れの研究棟の静けさの中で、同じ未来を思い描いた。

「佐野先生…。みのりさんの脳活動を撮影できたら… 音楽する脳の構造が、はっきり見えるかもしれない」

「ええ…。そして…火星研究にもつながりますよ。火星という、いわば人間にとって完璧ではない環境で子育てをする場合に、楽器とか音楽を駆使すれば、火星での不足分が補えるかもしれないです。水瀬さんのデータと、みのりさんのデータ…… 両方そろえば、“音楽が人間の脳をどう進化させるか”…というテーマが、一気に前に進むと思います」

高原教授は、ゆっくりと頷いた。
「……佐野先生。…私たち、いいチームですね」

佐野教授は、少し照れたように笑った。
「先生こそ…… 僕は、先生と組むと研究が面白くなるんですよ」

夕闇に包まれた研究棟に、静かで温かい空気が流れた。そして、これから始まる新しい研究の気配を、確かに感じていた。

◆ 高原教授 × 佐野教授 ――「みのりの脳を撮る方法」作戦会議
佐野教授は、机の上のMEG波形を指で軽く叩きながら、高原教授のほうへ向き直った。
「……で、先生。みのりさんの脳活動、どう撮りましょうか…」

高原教授は、少し笑いながら肩をすくめた。
「いやぁ……あの子の演奏は、普通の“音楽実験”じゃ収まらない感じだね。あれは、脳の広域ネットワークが一気に走ってるはずだ…」

佐野教授は、頷きながらモニターを操作した。画面には、過去の被験者の“楽器演奏時の脳活動”が映し出される。
「高木くんが作ったプロトコル、…あれをベースにすれば、即興演奏の脳活動をリアルタイムで撮れると思います」

「うん。あれは本当に良くできていた。テンポ変化に対する感覚運動野の同期も綺麗に出ていたし…… あれを使えば、みのりさんの即興の瞬間が見えるはずだね」

佐野教授は、椅子を少し前に引き寄せた。
「ただ……問題は、どの楽器で撮るか…なんですよね」

「サックスだと、動きが大きいからね……」

「ええ。MEGは頭部の位置が数ミリずれるだけでデータが乱れますから… サックスは、正直、難しいです」

高原教授は、少し考え込んだ。
「じゃあ……ピアノか… キーボードか…?」

佐野教授は、モニターを操作しながら答えた。
「キーボードなら、頭の位置がほぼ固定できます。しかも、みのりさんなら、サックスのフレーズをキーボードで再現することもできるでしょう」

高原教授は、そこでふっと眉を寄せた。
「……でも、佐野先生…。みのりさん、キーボードって弾けるのかな?」

佐野教授は、一瞬だけ固まり、そのあと少し笑いながら肩をすくめた。
「いやぁ…あの子なら弾けると思いますけど…… 確かに黒鍵と白鍵の配置は、慣れが必要ですよね」

「そうなんだよ。サックスと違って、鍵盤は視覚と指の位置のマッピングが複雑だからね。 ……あの子、触ったことあるのかな…?」

佐野教授は、真面目な顔で頷いた。
「……一応、確認したほうがいいかもしれませんね。初めてだと、最初の数分は戸惑うかもしれないですから…」

「うん…。ただ、みのりさんの脳のネットワークなら、慣れるのは早いと思うんだけどね…」

「ええ。あの子は音の意味で演奏しているタイプですから。楽器が変わっても、脳内ネットワークの動作パターンは同じはずですね」

高原教授は、少し笑った。
「じゃあ……みのりさんに聞いてみようか。『キーボード、触ったことある?』って」

佐野教授は、目を丸くした。
「えっ、今ここで聞くんですか?」

「うん。予測で計画を立てるより、本人に聞いたほうが早いからね」
高原教授はスマートフォンを取り出し、佐野教授の前でみのりの番号をタップした。

佐野教授は、モニターの前で少し緊張したように笑った。
「……どうなるかな…」

数回の呼び出し音のあと、明るい声が研究室に響いた。

「はい、みのりです!」

「ぶつりーずの高原です。今、お時間よろしいですか?」

みのりは一瞬だけ沈黙し、そのあと、少し笑ったような声で答えた。
「……はい、大丈夫です! その名乗り方、ちょっと面白いですけど…(笑)」

その返事を聞いた瞬間、佐野教授は吹き出しそうになりながら口元を押さえ、肩を震わせて笑いをこらえた。
(……先生、それ絶対クセになりますよ……)

高原教授は、相変わらず真顔のまま、みのりに質問し、佐野教授は思わず耳をそばだてた。
「みのりさん…… MEGで脳活動を撮影する計画を進めているのですが、その際にキーボードを使う予定なんです。キーボードは、触ったことありますか?」

一瞬の沈黙。佐野教授は、息を止めた。
そして──
「ありますよ。家に電子ピアノがあって、コードの練習とかしてます」

高原教授は、思わず声を上げた。
「そうなんですか! それは、とても助かります」

「黒鍵と白鍵も、だいたいわかります。サックスのフレーズを鍵盤で確認することもあるので…」

佐野教授は、椅子の背にもたれ、ゆっくりと息を吐いた。
(……完全に無用だったな、この心配…)

高原教授は丁寧に言った。
「ありがとうございます、みのりさん。それなら、キーボードでの即興演奏も問題なさそうですね。また詳細をご連絡します」

「…キーボードでの即興演奏……?! はい、わかりました。よろしくお願いします!」

電話を切ると、高原教授は佐野教授のほうへ向き直った。
「佐野先生…… みのりさん、キーボード弾けるそうです」

佐野教授は、声を上げて笑った。
「やっぱり! いやぁ… 本当にすごい子ですね。僕らの心配、完全に無用でしたね」

「うん。これで、計画はそのまま進められるよ」

佐野教授は、モニターに映し出されているMEG室のレイアウト図を指差した。
「じゃあ、この配置でいけます。
・キーボードをMEG室の中央に固定
・頭部はヘッドスタビライザーで位置を保持
・テンポ変化の刺激を外部スピーカーで提示
・即興演奏は自由に
・演奏中の脳活動をリアルタイムで記録」

高原教授は、図を見ながらゆっくり頷いた。
「……いいね。これなら、みのりさんの脳内ネットワークの動作パターンが見える」

「ええ。特に、即興の瞬間に前頭前野と感覚運動野がどう同期するか…… 絶対に面白いデータになります」

高原教授は、ふっと笑った。
「佐野先生…… 私たち、また論文が一本書けそうだね」

佐野教授も笑った。
「先生、これは一本どころじゃないですよ。“音楽する脳の構造” “即興演奏の神経基盤” “青年期の脳可塑性” “火星基地での音楽刺激の応用” 全部つながります」

高原教授は深く頷いた。
「……みのりさんは、研究の中心になるね」

「ええ。あの子の脳活動は、音楽と脳の共進化を説明する鍵になります」

夕闇の研究棟に、二人の教授の声が静かに響いた。
そして──二人は同時に、同じ未来を思い描いた。
「……撮りましょう、佐野先生。みのりさんの脳を…」

「撮りましょう、高原先生。“音楽する脳”を…」
佐野教授がMEG室のレイアウト図を閉じ、二人の間に静かな余韻が落ちた。

◆ 高原教授の“人類と楽器”の話
そのとき、高原教授が、窓の外の薄い藍色を眺めながら、ぽつりと言った。
「……佐野先生。私、こんな話を聞いたことがあるんですよ」

佐野教授は、椅子の背にもたれ、
「ほう…?」と穏やかに促した。

高原教授は、少し声を落とした。まるで、遠い昔の記憶を語るように…。
「4万年前……ホモ・サピエンスが洞窟で暮らしていた頃の話です。その洞窟には、笛の音が響いていたそうです」

佐野教授は、目を細めた。
「笛……ですか…」

「ええ。マンモスの骨や、鳥の骨で作った笛です。その音には、超高周波成分が豊かに含まれていて…… 特にそれが人々のストレスを和らげ、心を落ち着かせ、認知機能を高めたと言われています」

佐野教授は、静かに頷いた。
「洞窟の壁は音がよく反射しますしね…。残響が美しく伸びるでしょうね…」

「そうなんです。その“響き”が、集団の心をひとつにまとめた。そして──音楽が、人類の脳を鍛えたんです」

夕闇の研究棟に、高原教授の声が静かに溶けていく。
「一方… ネアンデルタール人は、私たちより大きな脳を持っていました。でも、笛を持たなかった。音楽を持たなかった。だから…… 社会を作れなかった」

佐野教授は、息を呑んだ。
「……音楽が、人類を生き残らせた」

「ええ。音楽は、脳の広い領域を同時に刺激します。前頭前野も、感覚運動野も、辺縁系も、視床も…… 全部が一斉に動く。だから、知能が飛躍的に高まった」

佐野教授は、ふっと笑った。
「先生…… それはまるで、みのりさんの脳そのものですね」

高原教授も笑った。
「そうなんですよ。みのりさんの即興演奏は、“音楽が人類を進化させた証拠”を、今の時代に再現しているようなものです」

二人はしばらく黙り、夕闇の研究棟の静けさを味わった。

そして──佐野教授が、柔らかく言った。
「……先生。音楽は、人類を救ったんですね」

高原教授は、ゆっくりと頷いた。
「ええ。そして今も、救い続けているんです。……そして、火星に移住したときの人類を救うのも ……音楽ですよ」

研究棟の窓の外に、夜の気配が静かに降りてきた。

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