未来の楽器が、動き始めた

未来の楽器が、動き始めた
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天野社長
◆ 第43話 ── アストレア楽器が「人の脳を育てる会社」へ

◆ 佐伯みのり起用による凄まじい効果
翌日の朝9時前、アストレア楽器本社の会議室には、企画室、広報部、営業部、技術部の主要メンバーと、本店の店長が席に着いていた。
広報部の川村は、昨日までの状況ができるだけ詳しくわかるように、社内ネットワーク上にアップした資料の再確認を行っていた。

企画室の三浦は、ノートPCを開きながら呟いた。
「高校生女子のギター購入……数字がちょっと異常だ……」

技術部の山本は、ギター売り場の写真を見ながら首を振った。
「昨日だけで、通常の5倍の来客……こんなの初めてだ……」

他のメンバーも、驚きの表情で、手元のノートPCで資料を見ていた。
そのとき、ドアが静かに開き、天野社長が入ってきた。

天野社長は、いつもの席にゆっくりと座り、集まったメンバーの顔を見渡した。
「おはようございます。本日は、育脳キャンペーンの基盤を構築するための新規プロジェクトの会議なのですが、まずは、昨日までの反響や売上の状況を共有してもらいたいと思います」

川村が、正面の大型モニターに資料を映し、口火を切った。
「まず、動画公開から5日間のSNSにおける反響です。『みのりさんの演奏を見てギターを始めたい』という投稿が400件を超えました。“#みのりギター始めた” が一時的に地域トレンド入りしています」

会議室がざわついた。
次に、営業部の田中が続けた。
「こちらが、店舗から上がってきた報告です。今日までの5日間での変化です。高校生女子のエレキギター購入が、前週比210% に増えています。特に、初心者向けのエントリーモデルが売れています。また、オンラインストアのギター関連ページのアクセスは、前月同時期の3.2倍に増加しています」

本店店長の森田が補足した。
「昨日だけで、ギター売り場に来た高校生女子が、通常の5倍でした。みのりさんの動画をスマホで見せながら、『これと同じのありますか』と聞かれます」

天野社長は、大型モニターの画面を見ながら思った。
(……始まっている……みのりさんの音楽が、社会を動かし始めている……そして、そのみのりさんを育てた水瀬さんの理論、その方法、……全てが本物だ……)

天野社長はゆっくりと顔を上げた。
「皆さん。この数字は、一時的な反響ではないと捉えて結構でしょう。今までのところ、ポスターを店頭に貼り、当社のWebサイトやSNSに、みのりさんの動画をアップしただけです。まだ、正式なCMは行っていない段階です。今後、CMを打ち出し、計画している“育脳キャンペーン”を進めれば、この先、ちょっと信じられない状況になる可能性があります」

全員の表情が変わり、目が大きく見開かれた。

◆ 水瀬あかりの絶大なる影響
天野社長は、再びメンバーの顔をじっくりと見渡しながら話した。
「ここで、皆さんに、しっかりと伝えておかなければならないことがあります。みのりさんの影響力は凄まじいのですが、そのみのりさんを、ごく短期間であそこまで成長させた人物がいるんです。それは、水瀬あかりさん…という方です」

広報部の川村が、ハッとして天野社長の目を見た。
(……水瀬先生……図書館で講演され… その後で、例のお店で…圧倒的なドラム演奏… …あの方が関係している……)

天野社長は続けた。
「皆さんには、以前にこの会議室でも視ていただきました、ぶつりーずの演奏で…、ドラムを叩いていた女性が水瀬あかりさんです。水瀬さんは、あのお店に行くまでに、市民図書館の大ホールで『地球から見た火星・火星から見た地球』というタイトルで講演をされた研究者の方です」

会議室全体がどよめいた。
「…え? …火星… …研究者…?」
「……プロのドラマーじゃなかったんだ…」

天野社長は頷き、そのあと、目線を上げた。
「昨日、私は水瀬さんから、“楽器が人の脳に与える影響”について、お話を伺いました。その内容は、私たちがこれまで考えていた常識を大きく超えるものでした。……水瀬さんはこう言われました。『楽器は、脳を育てる道具です』と…」

営業部の田中が思わず眉を上げた。
「脳を……育てる…… ですか…」

「ええ。水瀬さんは、次のようにも言われました。『これまでの楽器は、音楽を楽しむためのものとして認識されてきましたが、もっと大切なことは、脳の構造そのものを変える力を持っているということ。そして、特に中高生の場合は、創造の入口を開く時期であり、楽器は脳の抽象回路を育てるための道具になる』ということでした」

企画室の三浦が質問した。
「…その… 抽象回路とは、どのようなものでしょうか…」

「これは、水瀬さんから説明をいただいているんですが、抽象回路とは、複雑な情報を、単純なパターンや概念、すなわち、“本質”に変換して、記憶したり応用したりするネットワークのことだそうです」

三浦は確認した。
「つまり、複雑すぎてよく分からないようなものでも、これはこういうことなんだと、その本質を見抜いて記憶したり応用できたりする能力ですね」

天野社長は大きく頷き、言葉を続けた。
「まさしく、その能力です。…そういえば…思い出したのですが… 以前に高原教授から、みのりさんについて、次のようなエピソードがあったと聞いています。それは、物理学を専攻している大学生が15~20分ほどかけて解く物理の問題を、みのりさんは、なんと2分で解いたということで、大学じゅうを震撼させたそうです」

営業部の田中があっけにとられた顔をした。
「我々は、物理と聞いただけで拒絶反応を示すところですが… あの…みのりさんは、楽器演奏が素晴らしいだけでなくて、物理学についても…桁外れ…」

天野社長は大きく頷き、さらに言葉を続けた。
「はい。…そして、そのようなみのりさんへと短期間で変えてしまった人が、水瀬あかりさんなんです。……水瀬さんは最後にこう言われました。『未来の楽器は、子どもには、脳の基礎回路を。学生には、創造の入口を。高齢者には、脳の衰えを防ぐ複合刺激を与える恰好の装置になります。そして、年齢を問わず、未来の脳を与える装置になります』と…。……私は、水瀬さんからお話を伺った結果、アストレア楽器は、単に“楽器を売る会社”で終わってはならないと思いました。楽器は、人の脳を育てる装置になる。教育、医療、福祉、地域、社会の未来を変える力を持っている。だから、私たちの会社は、“人の脳を育てる会社”へと進化していかなければならないと…」

皆、ただ頷きながら、天野社長の言葉を受け止めていた。

◆ 新しい部署の設置について
天野社長はゆっくりと姿勢を正し、少し強めの口調で続けた。
「だからこそ、新しい組織が必要なんです。既存の枠では扱えない領域を扱うための、未来を創るための組織が…。……そこで、一つは、楽器が人の脳に与える影響を科学的に検証し、未来の楽器を開発するための、研究開発部(R&D)を、新設しようと思います」

技術部の山本が、慎重に口を開いた。
「……社長。研究開発部ということは、既存の製品とは別軸で、“楽器と脳の関係”を追求した新たな製品を生み出すための専門部署を作る、という理解でよろしいでしょうか…」

天野社長は、鋭い目つきで頷いた。
「その通りです。既存の考え方に基づく製品については、これまでどおり技術部が中心になります。しかし、水瀬さんが語ったような“未来の楽器”については、これまでの延長線上では扱えません」

天野社長のその迫力に、誰も、それ以上の言葉は発せられなかった。

天野社長は、さらに続けた。
「そして、もうひとつ必要な部署があります。それは、教育機関と連携を行うための、教育連携室です。学校、大学、自治体、高齢者施設など、育脳モデルを社会に広げるためには、専門の窓口が必要です。営業部だけでは対応しきれません」

本店店長の森田が言葉を発した。
「……育脳キャンペーンというからには、教育機関からの問い合わせも増えると思うのですが、少なくとも各店舗では対応が難しいでしょうし、現在の営業担当者の仕事の範囲を増やすことも難しいでしょう。そうなると、専門の部署を作るしかないですね」

「その通りです。教育連携室は、“育脳”という目的において、教育機関をはじめとした社会との接点を担う部署になります」

◆ それを束ねる部署も設置
天野社長は、ゆっくりとテーブルの上で手を組んだ。
「そして、研究開発部と教育連携室を束ね、育脳キャンペーンを推進するための“育脳プロジェクト室(仮称)” を設置します。この育脳プロジェクト室は、私が室長を務めます。そして、企画室の三浦さんには、副室長として入っていただきたいと思っています。
企画の視点として“育脳”を取り込んでほしいからです」

三浦は、驚いたように目を見開いた。しかし、すぐに姿勢を正し、深く頭を下げた。
「……承知致しました。微力ではありますが、全力で務めさせていただきます」

天野社長は、満足そうに頷いた
「ありがとうございます。育脳プロジェクト室は、研究開発部と教育連携室の橋渡しを行い、育脳キャンペーンの方向性を定める司令塔になります。人数は多い必要はありません。そして……この新しい体制を動かすために、どうしても必要な方がいます」

会議室が再び静まり返った。
天野社長は、ゆっくりと口を開いた。
「それは、水瀬あかりさんです。…あの方を、アストレア楽器の“特別フェロー”としてお迎えしたいと考えています」

皆は、互いに顔を見合わせた。
(……あの…水瀬さんを…)
(……確かに… あの人を超える人物なんて… この世にいないだろう…)
(……しかし… 本当に関わってくださるのかな…)

天野社長は、静かに続けた。
「水瀬さんは、脳科学だけでなく、生命環境、教育、身体、音楽を横断して、人間の能力を捉えている方です。また、研究者でありながら圧倒的なパフォーマンスで楽器の演奏もされ、佐伯みのりさんを短期間で変貌させ、私に楽器の未来を語り、社会を動かし始めてらっしゃいます。育脳キャンペーンを本物にするためには、どうしても必要な方です。研究開発部にも、教育連携室にも、そして育脳プロジェクト室にも、深く関わっていただきたいと思っています」

誰もが、アストレア楽器が新しい時代へ踏み出す瞬間を感じた。

天野社長は、会議室内をゆっくり見渡した。
「皆さん、アストレア楽器は、今日から新しい未来へ進みます。育脳キャンペーンは、単なる企画ではありません。私たちの使命です。どうか力を貸してください」

その言葉は、会社の未来を決定づける宣言だった。そして、誰もが、言葉を発しないまま、何度も頷いた。

◆ 天野社長から水瀬あかりへの依頼
会議が終わり、集まったメンバーたちは静かに退室していった。
天野社長は、しばらく席に座ったまま、深く息を吐いた
(……ここからが本番だ…… 水瀬さんに、正式にお願いしなければならない……)

天野社長は、ゆっくりとスマートフォンを取り出し、水瀬あかりの連絡先を開いた。指がわずかに震えていた。
(……あの方は、宇宙規模の研究をされている。こんな小さな会社に関わっている時間など、本来あるはずがない…… それでも……どうしてもお願いしたい……)

社長は、覚悟を決めて発信ボタンを押した。数回の呼び出し音のあと、落ち着いた声が聞こえた。

「はい、水瀬です」

その声を聞いた瞬間、天野社長は、自然と背筋を伸ばしていた。
「水瀬さん……お忙しいところ、申し訳ありません。アストレア楽器の天野です」

「天野社長… どうされましたか」

社長は、少しだけ息を整えた。そして、丁重に、慎重に言葉を紡いだ。
「……本日、社内で“育脳キャンペーン”の会議を行いました。その中で、研究開発部、教育連携室、そして育脳プロジェクト室という新しい体制を整えることを決めました。これは、昨日、水瀬さんから伺ったお話が、私たちの未来そのものだと確信したからです」

あかりは、短く相槌を打つ以外、静かに耳を傾けていた。

「水瀬さん……本来、あなたのお仕事は、宇宙規模の研究であり、こんな小さな会社が関わってよい領域ではないことは、百も承知しています。しかし……どうしてもお願いしたいことがあります」

社長は、深く頭を下げるような気持ちで言葉を続けた。
「育脳のための知恵だけでも、どうか、当社にご指導いただけないでしょうか。そして、水瀬さんが語られた“未来の楽器”… あれを、アストレア楽器で実現させたいのです。そのための方向性を、どうか示していただきたいのです」

あかりは、少しだけ沈黙した。その沈黙は、拒絶ではなく、真剣な思考の時間だった。

天野社長は、さらに言葉を重ねた。
「そして……佐伯みのりさんについても、今後、どのように才能を伸ばしていけばよいのか…ご指導いただければ、これ以上の幸せはありません。みのりさんは、あなたが導かれたことで、未来を手に入れました。その未来を、当社が関わる部分でも、正しい方向へ進めてあげたいのです」

あかりは、返答を始めた。
「……天野社長。ここまで丁重に、そして、真剣にお話しくださったこと、とても嬉しく思います。私は、確かに宇宙関連の研究をしていますが、人の脳の未来を創ることは、それと同じくらい大切な仕事です。そして、みのりさんの未来を守ることも、私にとって重要な使命です。アストレア楽器が“人の脳を育てる会社”へ進むというのなら、私は、喜んで協力します。おっしゃっていただいた、特別フェローという形でも構いません。必要な知恵は、すべてお渡しします」

天野社長は、胸が熱くなった。そして、スマートフォンを持ちながら深く一礼した。
「……水瀬さん……本当に……ありがとうございます……」

「こちらこそ。未来の楽器を、一緒に創りましょう。みのりさんの未来も、必ず守ります」
その言葉は、アストレア楽器という会社にとって、新しい時代の幕開けだった。

天野社長は、再び深く頭を下げて言った。
「……どうか、よろしくお願いいたします」

「はい。こちらこそ、よろしくお願いします」

電話が静かに切れた。天野社長は、しばらく動けなかった。そして、胸の奥に、もっと熱いものが広がった。
(……未来は……必ず創れる…… 水瀬さんと、みのりさんと…… そして、アストレア楽器の皆と共に……)

こうして、アストレア楽器は“未来の会社”へ向けて、新たな一歩を踏み出すことになった。

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