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◆ 第42話 ── 「育脳キャンペーン」始動
夕方の研究棟は静かで、窓の外には夏の光が薄く残っていた。
水瀬あかりの話を聞き終え、自分の研究室に戻った高原教授は、椅子に深く腰を下ろして考え込んでいた。
その後、おもむろにスマホを取り出し、発信ボタンを押した。
「はい、天野です」
「高原です。……天野社長… 突然すみません。……みのりさんの脳活動について、どうしてもお伝えしたいことがありまして…」
天野社長は、少し驚いたように答えた。
「……何か、ありましたか」
高原教授は、落ち着いた様子で話し始めた。
「…じつは… みのりさんの脳が、短期間であれほどまでに高機能な状態に変わってしまった最大の理由が分かりました。……それはやはり… 水瀬あかりさんの存在です」
少しの間を置き、天野社長は答えた。
「……あの、ドラムを叩いていた女性……ですか」
「はい。あの方です。……昨日、水瀬さんに大学に来ていただいて、佐野教授とともに、お話を伺ったんです。そしたら、みのりさんの出会いから今に至るまで、私たちの想像を遥かに超えた、的確かつ巧妙な介入をされてきたことが分かったんです」
天野社長は、思わず息を呑んだ。
「……そうでしたか… ……で、具体的には…」
高原教授は、今日、あかりから聞いた内容を、かいつまんで説明した。それは即ち、みのりの脳が眠っていた理由。その眠りを解くために、あかりが行った的確かつ巧妙な介入――安心、脳内環境、身体、未来の感覚、創造の入口──それらを整えた結果、みのりの脳が“本来の姿”を取り戻したこと。
説明が終わると、天野社長は深く息を吐いた。
「……只者ではないとは思っていましたが……まさか、そこまでの方だったとは……」
高原教授は、あかりの言葉が再び脳裏を横切り、声が少し震えた。
「佐野教授や私は… 脳科学をそれなりに追求してきた人間なのですが… 水瀬さんは、その遥か上から見られている感じがしました」
天野社長は、高原教授の話を聞き、衝動を抑え切れなかった。
「……水瀬あかりさんに… ぜひ、直接、お話を伺いたいです。…どうしても、お会いしたいです」
高原教授は、少し迷ったが、すぐに頷いた。
「分かりました。…水瀬さんに許可をいただきます」
その後、高原教授はあかりに連絡を入れ、天野社長が直接話をしたい旨を伝えた。
あかりは、少し考えたあと、静かに答えた。
「みのりさんのことが関係しているのなら、お会いします。……私の連絡先を、お伝えください」
許可を得た高原教授は、天野社長に、あかりの連絡先を伝えた。
その日の夜、あかりのスマホが静かに震えた。
「はい、水瀬です」
「私、高原教授から水瀬さんの連絡先を教えていただきました、アストレア楽器株式会社の天野と申します。突然のご連絡、失礼いたします」
「はい、経緯は、高原教授から伺いました」
「ありがとうございます。…あの… ぜひ一度、直接に、お話をお伺いしたいと思いまして…。そこで、私が水瀬さんのところにお邪魔しようと思うのですが… いつ、どちらに行かせていただけばよろしいでしょうか…」
あかりは、落ち着いた声で答えた。
「私のほうから、御社に、お伺いしようと思います。……クルマで向かいますので、ご都合のよい日時を教えていただけますでしょうか…」
「ありがとうございます。では、明日の13時半でも結構でしょうか…」
「はい、大丈夫です」
「ありがとうございます。では、お待ちしております。……失礼いたします」
通話が終わると、天野社長はしばらく動けなかった。胸の奥に、期待と緊張が同時に広がっていった。
(……水瀬あかりさん…… みのりさんの脳を、あそこまで変えてしまった人…… どんな話が聞けるのだろう……)
◆ 天野社長 × 水瀬あかり
翌日、アストレア楽器本社の応接室は、木の香りがほのかに漂い、静かな午後の光が差し込んでいた。
本社に到着したあかりは、広報部の川村に案内されて、応接室に向かった。
川村がノックしてドアを開けると、天野社長はすぐに立ち上がり、深く一礼をした。
「天野でございます。本日は、お越しいただき、ありがとうございます」
あかりは、柔らかく微笑んだ。
「このような機会をいただき、ありがとうございます」
その一言に、天野社長は再び頭を下げた。
(……私のほうから会いたいと言い、わざわざ来ていただいたのに… この低い姿勢… …やはり… 違う…)
頭を上げた天野社長は、少し緊張した声で切り出した。
「どうぞ、お掛けください。 ……高原先生から伺いました。みのりさんの能力が短期間であれほどまでに高まった理由、そして、その中心に、あなたがいらっしゃったことを…」
あかりは、静かに答えた。
「みのりさんは、もともと力を持っていました。私は、その力が働けなくなっている原因を外しただけです」
天野社長は、しばらく言葉を探したあと、ゆっくりと本題に入った。
「……水瀬さん。アストレア楽器として、どうしても伺いたいことがあるんです。それは、楽器の演奏と脳の発達の関係についてなのですが……。…実は、佐伯みのりさんに当社のブランドイメージキャラクターになっていただいたのですが、彼女を中心にして“育脳キャンペーン”なるものを展開していこうと思っているんです。これを実施する場合、やはり…、最も正しくて、最も有効な方法で進めていきたいと思うわけです。みのりさんは、大学から飛び入学のお誘いを受けるほど優秀である上に、楽器演奏でも圧倒的なパフォーマンスを示されます。あとは、私たちの会社が、育脳のために、どのような楽器を、どの年齢層に、どのような形で勧めていくのか…、その基盤となる知識や考え方を会得したいと思うのです」
あかりは、その前向きな姿勢に安堵した。そして、微笑みながら答えた。
「承知いたしました。大変重要なことですね。…では、年齢を3段階に分けて、見ていくことにしましょうか…」
天野社長は、メモ帳を開き、ペンを手に取った。
「ありがとうございます。勉強させていただきます」
あかりは、少しだけ姿勢を正し、静かに話し始めた。
▼ 子ども(幼児〜小学生)の場合
あかりは、指先で静かに空中をなぞりながら話し始めた。
「子どもの脳は、複数の領域を同時に使うときにだけ、強い回路が作られます。ですから、楽器は一種類ではなく、複数を“遊びとして”使うことが最適なんです。遊びは、脳の発達にとって最も強い刺激になります」
天野社長は、興味深そうに頷き、急いでメモを取っていた。
あかりは続けた。
「たとえば、打楽器。リズムは、脳の“予測回路”を作ります。テンポを合わせる行為は、前頭前野と海馬を同時に使うため、学習の基礎になります。鍵盤は、左右脳の協調を作ります。これは、言語・数学・論理の基礎になる“構造の理解”を育てます。管楽器は、呼吸が深くなることで自律神経が整い、脳幹が安定します。また、情動の安定に直結するため、子どもの心の土台を作ります。弦楽器は、指の微細運動を使うため、脳の“感受性”を育てます。また、音の強弱やニュアンスを感じ取る力は、創造性の基盤になります」
あかりは、静かにまとめた。
「つまり、子どもの育脳は、“複数の楽器で遊ぶこと”が最適なんです。楽譜ではなく、遊び。再現ではなく、創造。その経験が、脳の基礎回路を作ります」
▼ 中高生~大学生の場合
あかりは、少し表情を引き締めて続けた。
「中高生から大学生にかけては、脳の“抽象回路”が急速に発達します。この時期は、ただ楽器を触るだけではなく、“創造の入口”を開くような使い方が必要になります」
天野社長は、静かに頷いた。
あかりは、前頭前野の位置を指し示すように、空中にそっと手を動かした。
「たとえば、鍵盤は、和音という“構造の言語”を扱います。これは、数学や物理の構造を読む力と直結します。抽象的な概念を理解するとき、脳は和音と同じように“構造”を使うんです。弦楽器は、音のニュアンスを読む力を育てます。これは、抽象思考の深さと強く結びついています。微細な違いを感じ取る力は、創造性の中心です。打楽器は、アドリブが重要です。再現ではなく、即興。アドリブは、脳の“未来予測”の領域を強く使います。創造ネットワークを直接刺激する、非常に強い育脳行為です。管楽器は、呼吸と音を統合します。そして、深い呼吸は、自律神経を整え、ストレス耐性と自己効力感を高めます。この時期の子どもたちには、とても大切な要素です」
あかりは、静かにまとめた。
「つまり、特に中高生は、創造の入口を開く時期です。楽器は、勉強の補助ではなく、脳の抽象回路を育てるための道具になります」
▼ 高齢者の場合
あかりは、少し優しい表情になり、天野社長のほうへ視線を向けた。
「高齢者の脳は、単発の刺激では動きません。必要なのは、複数の領域を同時に使う“複合刺激”です。鍵盤は、最も総合的な刺激になります。両手の協調、構造の理解、情動、予測、これらを同時に使うため、高齢者の脳機能維持に最も効果があります。管楽器は、呼吸が深くなることで脳幹が安定します。また、自律神経が整いますので、認知症の進行を遅らせる効果があります。弦楽器は、指の微細運動を使います。これは、脳の“運動系の衰え”を防ぐのにとても有効です。たとえば、ウクレレのような簡単な弦楽器が最適です。両手を使う打楽器、たとえばカホンやボンゴなどは、テンポを合わせる行為が海馬を強く刺激します。記憶の維持に効果があります。高齢者施設などで使われることの多い単発のタンバリンやトライアングルでは、刺激が弱すぎます」
あかりは、静かにまとめた。
「つまり、高齢者には、鍵盤・管楽器・ウクレレ・両手打楽器、この4つを“遊びとして”使うことが最適です。歌だけでも不十分です。楽器と組み合わせることで、脳は動きます」
天野社長は、しばらく動けなかった。胸の奥に、静かな震えが広がっていった。
「……水瀬さん……あなたの話は……教育と医療と音楽を……ひとつの理論に統合してしまっている……」
あかりは、静かに微笑んだ。
「楽器は、脳を育てる道具です。年齢によって、作用の仕方が変わるだけです」
応接室の空気が、ゆっくりと震えた。アストレア楽器の未来が、静かに形を変え始めていた。
◆ あかりが語る「楽器の未来」
あかりは、少しだけ視線を落とし、応接室の木目を静かに見つめた。その表情は、未来を見ている人のそれだった。
そして、ゆっくりと口を開いた。
「……天野社長。楽器は、これからは、単に音を出す道具ではなくなります。年齢を分けずに言うならば… 打楽器は、予測の脳を育てます。鍵盤は、構造の脳を育てます。管楽器は、情動の脳を整えます。弦楽器は、感受性の脳を育てます。そして、これらを“遊びとして”使うとき、脳は最も強く成長します」
天野社長の眼差しが、明らかに変わった。
あかりは続けた。
「これまでの楽器は、“音楽を楽しむためのもの”として認識されてきました。でも、もっと大切なことは、“脳の構造そのものを変える力を持っている”ということです」
その声は、静かで、しかし揺るぎない確信を帯びていた。
天野社長は、ペンを持つ手を止めた。
あかりは、少しだけ表情を柔らかくした。
「そして、未来の楽器は、もっと先へ進みます。人の脳が必要としている“環境”を、楽器が作るようになります」
「環境……ですか」
「はい。生命信号、超高周波音、情動波形、フィトンチッドなど、人の脳が本来必要としているものを、楽器が“空気として”作る時代になります」
天野社長は、息を呑んだ。
あかりは、静かに続けた。
「その未来の楽器は、子どもには、脳の基礎回路を。学生には、創造の入口を。高齢者には、脳の衰えを防ぐ複合刺激を与える恰好の装置になります。そして、年齢を問わず、人類には、“未来の脳”を与える装置になります」
天野社長には、その言葉が、まるで遠い未来から届いた予言のようだった。そして、しばらく言葉を失った。
(……この人は……楽器を“音楽の道具”として見ていない……“人間の未来を作る装置”として見ている……)
あかりは、これ以上の話は、天野社長が消化不良を起こしかねないので、今日はこの辺りまでだと判断し、静かに席を立った。
「アストレア楽器さんは、その未来を作れる会社だと思っています。……では、今日はこれで失礼いたします。また必要があれば、いつでもお呼びください」
天野社長は、胸の奥に広がる震えを抑えきれなかったが、立ち上がり、ゆっくりと口を開いた。
「……水瀬さん。今日のお話は……私たちの会社の未来を、根本から変える内容でした。本当に……ありがとうございました」
そして、深く頭を下げた。
あかりは軽く会釈し、応接室のドアへ向かった。
ドアノブに手をかける直前、あかりはふと振り返り、柔らかく言った。
「楽器は、人の未来を変えます。それは……もう始まっています」
その一言を残し、あかりは静かに応接室を後にした。
天野社長は、しばらくその場に立ち尽くした。
◆ 天野社長が「育脳モデル」を構想し始める
あかりが去った応接室には、まだ数々の言葉の余韻が残っていた。
(……楽器は、音を出す道具ではなく ……脳を育て …心を整え …未来を開く装置になる…)
(……アストレア楽器は……楽器を“売る会社”ではなく、“人の脳を育てる会社”になる……)
天野社長は、応接室の窓から外の空を見つめた。夏の午後の光が、ビルのガラスに反射して揺れていた。
(……これは、もちろん、楽器店だけの話ではない… 音楽業界だけの話でもない… 教育界だけの話でもない……医療、福祉、子育て、地域、企業研修……すべてに関わる……楽器が人の脳を変えるなら……私たちの事業領域は今の数倍に広がる……)
胸の奥に、静かな震えが広がった。
(……水瀬さんは……未来を見ている……私たちがまだ名前すら持たない領域を……当たり前のように歩いている……)
天野社長は、応接室のテーブルに置かれたメモ帳を見直した。そこには、あかりが語った年齢別の育脳モデルが、急いで書き取った文字で並んでいた。
子ども:複数の楽器で遊ぶ
中高生:創造の入口を開く
高齢者:複合刺激で脳を守る
そして、その下に、自分でも驚くほど力強い筆跡で書かれた一行があった。
「楽器は、人の脳を育てる装置、未来をひらく装置になる」
天野社長は、その文字を見つめながら、ゆっくりと息を吸った。
(……育脳キャンペーン……これは、単なる広報企画ではない……アストレア楽器の“新しい使命”になる……)
(……そうだ……佐伯みのりさんは、子どもの頃に複数の楽器で遊び、学生になって創造の入口を開き、そして今、“未来の脳”を持っている……)
社長は、スマホを取り出し、社内の主要メンバーに向けてメッセージを送った。
「至急、企画室・研究開発部・広報部・教育連携室の合同会議を設定してください。新規プロジェクトの立ち上げについて話します」
送信ボタンを押した瞬間、胸の奥で何かが静かに、しかし確実に動き始めた。
(……水瀬あかりさん……あなたが見ている未来を……アストレア楽器が…必ず形にします……)
天野社長は、応接室のドアを静かに閉めた。その背中には、これまでの楽器販売会社とはまったく違う、新しい使命を背負った人の気配が宿っていた。そして、アストレア楽器の未来が、今、確かに動き始めていた。
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