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◆ 第32話 ── アストレア楽器の育脳キャンペーンが決まる
翌朝――ママは、みのりの横で、静かにスマホを手に取った。画面には、昨日届いたメールの差出人──アストレア楽器株式会社(Astrea Music Inc.)広報部・川村 の名前。
(…よし… ちゃんと話そう…)
ママは深呼吸して、発信ボタンを押した。
「…お電話失礼いたします。佐伯みのりの母でございます。昨日いただきました “ブランドイメージキャラクター契約書(案)” の件なのですが……」
電話の向こうで、落ち着いた声が返ってきた。
「佐伯みのりさんのお母さまですね。川村でございます。ご連絡ありがとうございます」
ママは少し緊張しながら続けた。
「契約書の内容、すべて確認いたしました。問題ありませんので…承諾させていただきたいと思います」
川村さんは、ほっとしたように声を和らげた。
「ご承諾いただき、ありがとうございます。社長にもすぐに報告いたします。正式な契約書は “案” の部分を外し、2部作成してご自宅に郵送いたします。ご確認のうえ、みのりさんとお母さまのご捺印をお願いできればと思います」
「はい、よろしくお願いいたします」
川村さんは、少し声を弾ませて続けた。
「実は…社長が…“口頭で承諾をいただけたなら、一刻も早くご挨拶したい” と申しておりまして…。急なお話なのですが…本日、当社の営業担当の佐藤が、ご自宅までお迎えに伺ってもよろしいでしょうか…。みのりさんとお母さまに、ぜひ直接お会いしたいとのことなのです」
ママは、驚きながらも、時間の調整をした。
「私、通常でしたら、9:30までに勤務先に出社しまして、16:30までが勤務時間になっているんです…。…えっとぉ…じゃ、今日は13時に退社することにします。比較的近くの職場ですので、13:30には確実に自宅に戻っていると思いますので…、そのお時間で大丈夫でしょうか…」
「ありがとうございます。社長は、今日は佐伯さんのことが最優先だと言っておりましたので、その旨、伝えておきます。…では、当社の営業の女性社員である佐藤が、13:30頃にご自宅に伺います。どうぞよろしくお願いいたします」
電話を切ると、ママはそっと息をついた。
(……本当に… みのりのことを大切に扱ってくれている…… ちゃんとした会社なんだ……)
みのりが不安そうに顔を覗かせた。
「…ママ… …どうだった?」
ママは優しく微笑んだ。
「大丈夫。契約、正式に承諾したよ。それでね… 今日、会社の人が迎えに来てくれるって」
みのりは目を丸くした。
「…え…迎えに?」
ママは頷いた。
「社長さんが、みのりに直接会いたいんだって。すごいね… みのり…」
みのりは胸の奥がじんわり熱くなり、小さく息を吸った。
(……本当に……始まるんだ……)
◆ 会社からお迎えが来る
13時30分。
みのりとママが玄関で待っていると、静かに一台の車が家の前に止まった。降りてきたのは、落ち着いた雰囲気の女性──アストレア楽器の営業担当・佐藤だった。
「佐伯みのりさん、そしてお母さまですね。本日はよろしくお願いいたします」
丁寧な挨拶のあと、三人は車に乗り込んだ。
車内では、佐藤が柔らかい声で会社の雰囲気や、今日の流れを簡単に説明した。
みのりは少し緊張しながらも、窓の外を見つめていた。
やがて車は、アストレア楽器株式会社の本社ビルに到着した。
受付で名前を告げると、すぐに広報部の川村が姿を見せた。
「佐伯みのりさん、そしてお母さま。本日はお越しいただき、ありがとうございます」
川村は丁重に頭を下げ、三人を社長室の前まで案内した。
みのりは小さく息を吸った。
ママはそっと、みのりの背中に手を添えた。
川村がノックし、ドアを開けた。
◆ 社長との面談
川村がドアを開けると、広い社長室の奥で、一人の男性が立ち上がった。穏やかな表情。しかし、その目には、研ぎ澄まされた光が宿っていた。
「私、アストレア楽器株式会社の社長で、天野と申します。本日は、お越しいただき、ありがとうございます。どうぞ、おかけください」
みのりとママは、少し緊張しながら頭を下げ、勧められたソファーに腰を下ろした。
天野社長は、二人の姿を見て、柔らかく微笑んだ。
「まずは…みのりさん。先週の土曜日の演奏の様子、当社の社員から詳しく聞きました。そして、Wonderful Tonight の動画、私自身も拝見しました。また、ニュースでの報道内容も拝見しました」
みのりは、胸の奥がぎゅっと熱くなるのを感じた。
天野社長は、ゆっくりと続けた。
「あなたの演奏の凄さは、私自身がWonderful Tonight の動画を直接見たときも感じましたが…、何よりも、最初のブルースの即興演奏の短時間で、お店の周囲一帯が歩行困難になるほどの人を集めてしまったことです。そしてまた… 2曲目のWonderful Tonight のときの、あなたのサックスを聞き、多くの人が涙ぐんでいたことです。……普通のアーティスのコンサートの場合、お客さんは何曲も聞き、徐々に盛り上がっていき、最後のほうになって涙ぐむ… そういうことはあるかもしれません。…しかし… 2曲目のサックスの音が流れ始めてすぐに……。このような現象を生むこと自体が、あなたの能力の凄さを物語っています」
みのりとママは、そのような表現にて迎えてくれた天野社長に、深く頭を下げた。
天野社長は、ふと表情を和らげながら続けた。
「…ところで、みのりさん。後日で構いませんので、履歴書をいただけますか…。今は高校2年生ですよね。…ですから…、来春からは高校3年生ですよね」
ママは、少し申し訳なさそうに首を振った。
「いいえ… 来春からは大学生になります。大学のほうから、飛び入学をお願いされまして…」
天野社長は、椅子から身を乗り出した。
「…飛び入学…? 大学側からお願いされた…?」
ママは静かに頷いた。
「はい。大学のほうから声をかけていただきました」
天野社長は、しばらく言葉を失い、目を見開いてみのりを見つめた。
そして、ママのほうに向かって言った。
「……それは… 本当にすごいことですよ。…私はこれまで… 優秀な人材を見つけようと、それなりに世間を見てきました……。 …しかし…、大学側から飛び入学を希望される例など、聞いたことがありません」
少しの間を置いたあと、天野社長は興味深そうに尋ねた。
「音楽関係の学部ですか?」
ママは、控えめに答えた。
「いいえ……物理学関係です」
その瞬間、天野社長は、驚きとともに、納得が得られたような表情に変わった。
「……あぁ…なるほど。“ぶつりーず” の教授陣がいらっしゃる学部ですね。…ということは……みのりさんは、相当な成績優秀者で……頭脳そのものが、突出している……」
ママは、どう返せばいいのか分からず、ただ小さく首を横に振るだけだった。
天野社長は、その仕草を見て、みのりの家庭環境と、ママの謙虚さを一瞬で読み取った。そして、少し間を置いて、まるで独り言のように、しかし確信を持った声で言った。
「……なるほど… …だから、あの演奏が生まれるのかもしれませんね…」
みのりは、どういうことなのかと、天野社長のほうを見た。
天野社長は続けた。
「音楽というのは……ただ演奏技術や感情だけで表現できるものではありません。みのりさんの演奏は… 瞬時に頭の中で音楽そのものが再構成されている。新しいフレーズがどんどんと自然に生まれていく。そしてそれが、指を動かす脳の領域と直結して…指が勝手に動く ように見える」
みのりは、その深みのある表現に、思わず息を呑んだ。
天野社長は続けた。
「……音楽と脳の関係については、私はそれほど詳しくはないのですが…… あなたは、稀に見られる……いわゆる…天才だと思います。そう解釈しない限り、学問分野と音楽が高度に両立していることの説明がつきません」
ママとみのりは、恐縮したように頭を下げた。
そして、天野社長はふと、視線をママへ向けた。
「…ところで… みのりさんのご兄弟は…?」
ママは少し驚きながら答えた。
「……妹が一人います。二人姉妹です」
その瞬間、天野社長の目に、静かな理解が宿った。
(……母子家庭で… 女手一つで、二人の娘さんを育ててこられたのか……)
天野社長は、深く頷いた。
「……お母さま。ここまで育ててこられたこと……本当に、尊敬いたします」
ママは、思わず目を伏せた。
「いえ……そんな……」
「いいえ。みのりさんの音には、家庭の温かさも滲(にじ)んでいます。それは、みのりさんが育ってこられた環境によるものです。あなたが育ててこられた音でもあるわけです」
ママの目に、少し涙が滲んだ。
天野社長は、ゆっくりと姿勢を正し、みのりのほうを向いて話した。
「みのりさん…。あなたをブランドイメージキャラクターとして迎えたい理由は、その才能だけではありません。あなたの音には…人を救う力がある…、人を前に進ませる力がある… それは、企業が持つべき価値そのものなのです」
さらに、天野社長はみのりの目をまっすぐ見つめながら、静かに言葉を続けた。
「月額30万円という契約は……あなたの本当の能力を評価した額ではありません。あなたの卓越したその能力は、こんな数字では到底収まらないでしょう。…ですので、この額は、ここからスタートしましょう、という意味だとご理解いただきたいと思います」
みのりは、少し驚いたように目を瞬いた。
天野社長は、柔らかく微笑みながら続けた。
「そのこともあって……これ以外の部分でも、あなたの人生を支えたいと思っています。あなたが音楽を続けるために必要なものがあれば、遠慮なく言ってください。環境でも、学びでも、楽器でも…… あなたの未来を支えることが、私たちの喜びなのです」
ママは、目を潤ませながら答えた。
「…ありがとうございます…。そこまで…おっしゃっていただきまして… もう、感謝しかありません。…たしかに… 家庭の事情ということで、娘たちに不自由があってはならないと…私なりに頑張ってきました。そしてこの子は、勉強の合間にも、家事を手伝ってくれたり、妹の面倒を見てくれたり…。 …そして今…社長さんからも……こんな有難いお言葉を頂けるなんて…。本当に…ありがとうございます…」
天野社長は、ママの言葉を聞きながら、胸の奥に込み上げてくるものを抑えきれなかった。
(……もっと支えられることがあるなら…… 私は惜しみなく力を尽くそう……)
◆ みのりと天野社長の思わぬ展開
契約の重要な話がひと段落したところで、天野社長は、少し表情を変えてみのりに向き直った。
「…ところで、みのりさんは、複数の楽器を演奏されますよね。そこで一つ、あなたの考えを聞かせてほしいのですが…。…どうすれば、もっと多くの人が楽器を愛用してくれると思いますか?」
みのりは、一瞬だけ考えた。そして、あの土曜日の講演での、あかりさんの言葉が鮮明に蘇った。
(……あかりさんが言ってた…… 脳の働きを高めるためには、楽器を自分で演奏することが効果的……)
みのりは、ゆっくりと口を開いた。
「……この前の土曜日、水瀬あかりさんの講演がありました。…その中で、頭の働きを高めるための具体的な方法として……自分で楽器を演奏すること…が紹介されていました」
社長は、興味深そうに頷いた。
みのりは続けた。
「たぶん……幼い頃からピアノを習って、楽譜通りに弾く練習をする……そういうことではなくて……もっと自由に…いろんな種類の楽器で“遊ぶ”ことだと思うんです。遊び感覚で、好きな音を出してみる……それが、脳にとってすごく良い刺激になるんだと思うんです」
その言葉は、社長の胸に深く突き刺さった。そして、しばらく言葉を失った。
(……そうだ… 私はこれまで、プロの演奏家に向けて“良い楽器”を勧めることばかり考えていた…… それでは利益率は高くても、数は出ない… 市場は広がらない…)
(……しかし… “脳を育てるために楽器で遊ぶ” …この発想なら…… 中学生、高校生、大学生…… この層が複数の楽器を買ってくれる可能性がある…… しかも、手頃な価格帯の楽器で十分…… 市場規模は一気に跳ね上がる……)
そして、天野社長の脳裏には、あの映像が浮かんだ。
(……水瀬あかりさん…… あの圧倒的な表現力…… プロのドラマーを上回るほどの演奏…… 彼女自身が“育脳の証拠”そのものだ……)
社長は、みのりを見つめた。
(……みのりさんの言葉は… …ただの意見じゃない…… これは…会社の未来を変えるヒントだ……)
「……みのりさん… あなたの言葉が…すごいヒントになりました」
天野社長は、ようやく言葉を発した。そして、続けた。
「中高生向けに、“育脳キャンペーン” を展開しましょう。手頃な価格の楽器を複数そろえて…“遊び感覚で演奏することが脳を育てる” と伝える。そして…あなたに、いろんな楽器を軽く演奏していただいて… それをPR動画にする」
天野社長の声は、熱を高めながら続いた。
「これは…当社の未来を変える企画になります! みのりさん…、あなたの言葉が、本当に大きなヒントになったんです」
ママは、横に座っているみのりの手に、自分の手をそっと添えた。
みのりは、何かを思い出したように、ふと顔を上げた。
「……あの… もう一つだけ…言ってもいいですか…?」
天野社長は、興味深そうにみのりを見つめた。
「もちろんです。どうぞ」
みのりは、少し緊張しながらも、はっきりと話した。
「…私、2年生在学中にも出入りさせてもらう予定の佐野先生の研究室で… 楽器を演奏しているときの脳の活動を、映像で撮ってもらえる可能性があります。…たぶん… 演奏すると、脳の広い領域が一気に活性化して…… それが映像化できる可能性が考えられます」
天野社長は、息を呑んだ。
みのりは続けた。
「もし…その映像を使わせてもらえたら……“楽器を演奏すると脳がこう変わる” っていうのが、誰にでも分かる形で伝えられるかもしれません。そしたら…今までの楽器店さんのPRとは、全然違うものになるような気がします…」
その言葉は、天野社長の胸に雷のように落ちた。そしてしばらく言葉を失い、みのりを見つめたまま固まっていた。
(……脳活動の映像… そのようなものをPRに使った楽器店など、聞いたことがない…… “楽器を演奏すると脳が育つ” …その科学的証拠を、視覚で示せる…… これは……革命だ……)
そして、社長はゆっくりと息を吸い、深く、深く頷いた。
「……みのりさん… …あなたは… …本当にすごい……」
声が震えていた。
少しの間を置き、続けた。
「楽器を演奏すると脳がどう変化するのか──それを映像で示せるなら… 育脳キャンペーンは、ただのPRではなく…“教育”になります。社会を変える力を持つ企画になるはずです」
天野社長は、胸に手を当てるようにして、さらに続けた。
「…私は、楽器業界に長くいますが… こんな発想を聞いたのは初めてです。あなたの言葉は…企業の未来を変えるヒントどころか… 新しい市場そのものを作り出す可能性があります」
みのりは、少し恥ずかしそうに俯いた。
「……そんな… …私はただ… あかりさんの講演を思い出しただけで……」
社長は、穏やかに首を振った。
「いいえ。思い出して言葉にできる ということが、才能なんです。あなたは、音楽だけでなく…学問と社会をつなぐ力を持っています」
ママは、みのりの横で静かに涙を拭っていた。
天野社長は、深く、深く頷いた。
「……育脳キャンペーンに、脳活動の映像を加える。これは…必ず実現します。みのりさん、あなたの言葉が…本当に大きな一歩を作りました」
天野社長は、深く頷いたあと、ゆっくりと立ち上がって内線ボタンを押した。
「天野です。川村さん…ちょっと来てもらえますか」
すぐに川村が社長室に入ってきた。
「失礼いたします」
天野社長は、先ほどまでの熱を少し抑え、仕事の顔に戻った。
「川村さん。先ほど、みのりさんから非常に重要なヒントをいただきました。“育脳キャンペーン” を立ち上げます。詳細はこれから詰めますが──中高生向けに、複数の楽器を“遊び感覚で演奏する”ことの価値を伝える企画です」
川村は驚きながらも、真剣に頷いた。
「承知しました。広報部で具体的な撮影スケジュールや構成案を作成し、社長にご提案いたします」
「お願いします。いずれは、みのりさんの脳活動の映像を使える可能性もありますので、その点も含めて、研究室との連携も視野に入れてください」
「かしこまりました」
天野社長は、満足そうに頷いた。
「では、佐藤さんにも伝えてください。お二人を安全にご自宅までお送りするように、と」
「承知いたしました」
川村が退出すると、社長室には再び三人だけが残った。
天野社長は、みのりとママの前に歩み寄った。その表情は、企業のトップではなく、一人の人間としての温かさに満ちていた。
「……今日は、本当に……お会いできて良かったです。みのりさん。そして、お母さま」
そう言うと、社長は両手を差し出し、みのりとママの手を、包み込むようにしっかりと握った。
「この出会いは、私たちにとって大きな意味があります。今日から始まるこの道を…… どうか一緒に歩ませてください」
みのりは、胸の奥が熱くなり、言葉が出なかった。
ママも、静かに頷きながら、涙をこらえていた。
社長は、二人の手をゆっくりと離し、柔らかく微笑んだ。
「佐藤が外で待っています。今日は本当にありがとうございました。またすぐにお会いしましょう」
みのりとママは深く頭を下げ、社長室を後にした。廊下に出ると、佐藤が丁寧に会釈した。
「では、ご自宅までお送りしますね」
みのりは、社長室のドアを振り返った。その向こうには──高2の夏休みに始まった、想像もしていなかった自分の姿が……一瞬見えたような気がした。
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