《今回のアイキャッチ画像(高解像度版)》
◆ 第44話 ── 水瀬あかり、育脳エフェクターの理論を公開
◆ 水瀬あかり、アストレア楽器へ
水瀬あかりが、アストレア楽器株式会社の特別フェローとして関わることが決まった翌週、育脳プロジェクトに関わる主要メンバーとの初のミーティングが行われることになった。なお、新設された研究開発部の部長として、それまで技術部の部長であった山本が就任していた。
午前10時前、企画室の三浦、研究開発部の山本、営業部の田中、広報部の川村が、先に会議室に着席していた。
広報部の川村は、落ち着かない様子で、何度も腕時計を見ていた。
研究開発部の山本は、持ってきた資料を眺めながら、何度も深呼吸をしていた。
(……来られるんだ…… 水瀬あかりさんが……)
営業部の佐藤は、受付の近辺で緊張した面持ちで立っていた。
あかりは、9:50に本社に到着した。玄関の自動ドアが静かに開くと、受付担当者が丁寧に頭を下げ、少し緊張した声で言った。
「水瀬あかり様、ようこそお越しくださいました。天野社長がお待ちです」
あかりは、受付の横で待機していた営業部の佐藤に誘導されて、先ずは、応接室に案内された。
「水瀬様、ミーティングが始まる前に、天野社長がお会いしますので、ここでお待ちください」
あかりは、穏やかな笑顔で会釈した。
すかさず、他の女性社員が、緊張した様子で飲み物を持ってきた。
(……この方が… 水瀬あかりさん……。 動画でしか見たことなかったけど… こんなに可愛くて素敵な女性が…特別フェロー……)
すぐに、天野社長が応接室に入ってきて、丁寧に頭を下げた。
「水瀬さん、おはようございます。本日は、ありがとうございます。これから、何名かの幹部社員に水瀬さんを紹介させていただきますが、水瀬さんのほうからも、何らかのアドバイスをいただけると嬉しいです」
「はい、承知いたしました。よろしくお願いします」
「では、会議室のほうにご案内します」
天野社長は、あかりの右前を静かに歩きながら、会議室まで案内した。
会議室のドアが開くと、予め着席していた幹部社員たち4名は、すかさず起立し、深く頭を下げた。
天野社長は、あかりの紹介から始めた。
「皆さん… この度、当社側から多大なるご無理を言いまして、特別フェローという形でご指導いただけることになりました、水瀬あかりさんです。どうぞ、よろしくお願いします」
「水瀬あかりです。よろしくお願いします」
あかりは、にっこりと微笑みながら一礼した。
動画でしか見たことのなかった水瀬あかりを、実際に目の前にした企画室の三浦、研究開発部の山本、営業部の田中は、その穏やかな佇まいの中に、場を圧倒する空気感を感じた。
(……優しいのに …全てを見抜かれてしまいそうな眼差し…)
(……本当に…来てくださったんだ……)
(……なんか… …やっぱり…すごい… )
幹部社員たちは、立ち上がったまま固まった。
天野社長は、メンバーを順に紹介した後、あかりを席に誘導した。
「皆さん、着席しましょう。……今日は、当社で新たに展開しようとしています“育脳キャンペーン”の技術的な基盤について、ぜひご意見を伺いたいと思っています」
◆ あかりの指摘――エレキギターの致命的な欠点
あかりは、会議室全体を見渡しながら、ゆっくりと口を開いた。
「既に、佐伯みのりさんを用いたポスターや動画を作られていますが、その中でエレキギターを弾いているシーンが使われていますね。そのエレキギターについて、すぐにでも改善しなければならないことがあります。それは、育脳という観点で見ると、構造的に大きな欠点を抱えているということです」
天野社長をはじめとし、出席メンバーの誰もが驚きを隠せなかった。
(……それなりの歴史を持つエレキギターに… 欠点が…)
研究開発部の山本が、思わず身を乗り出した。
「欠点……ですか……」
あかりは、静かに続けた。
「はい。最大の問題は、可聴音しか出ていない、ということです」
会議室の空気が、一瞬で張り詰めた。
あかりは更に続けた。
「アコースティックギターやヴァイオリン、サックスには、弦や管の振動によって生まれる倍音成分が豊富で、その中には、脳に有効な超高周波音が大量に含まれています。しかし、エレキギターは、弦の振動をピックアップで電気信号に変換する段階や、アンプとスピーカーを通す段階で、その有効な成分がほぼ全て削られてしまいます」
三浦は、息を呑んだ。
「……つまり……育脳効果は、アコースティックギターよりも低い……」
天野社長も続けた。
「要するに…現状のエレキギターは、育脳用楽器としては不完全…ということですね」
「はい。現状のエレキギターは、育脳のための楽器としては不完全なのです。でも、ある部分を改良すれば、アコースティックギターを超える楽器になります」
◆ 現状のエレキギターの性能
天野社長は、研究開発部の山本に問いかけた。
「山本さん。エレキギターの場合、ピックアップで拾える周波数はどれぐらいでしょうね?」
山本は、該当する技術資料を開きながら答えた。
「一般的なエレキギターのピックアップが拾える周波数帯域は、だいたい80Hzから、せいぜい12kHzあたりまでです。ちなみに、弦の基本周波数は、1弦開放(E4)が329.63 Hz、22フレットを押さえれば(E6)1318.52 Hz、24フレットを押さえれば(F6)1396.91 Hzですが、これに、倍音成分やピッキングのアタック音の高周波成分が加わることになります」
天野社長は頷いた。
「なるほど……つまり、弦の基本周波数を拾うには十二分の性能だけれども、脳に有効な超高周波の倍音は、そもそも拾えていないわけですね」
「はい。構造上、ピックアップは弦の振動を電磁誘導で拾う形式で、理論的にはもっと高い帯域まで反応できるはずなんですが、実際には10〜12kHzが限界です。そこから上は急に減衰してしまいます」
天野社長は、あえて山本に投げかけてみた。
「では、山本さん…。アコギなら20kHzを超える倍音成分がいっぱい出せて、脳にも体にも好影響を与えることができる。ところが、エレキではそれが期待できない。どうすればいいですか?」
山本は、少し考えてから静かに口を開いた。
「……高域を伸ばす方法は、いくつかあります。まず、ピックアップのインダクタンスを下げることです。コイルの巻き数を減らしたり、線材を変えたりすれば、レゾナンス周波数を上げることができます。一般的なシングルコイルは3〜5kHz付近にピークがありますが、設計次第で7〜9kHzあたりまで持ち上げることは可能です」
天野社長は頷きながらも、山本の、続きの言葉を待った。
山本は続けた。
「次に、ケーブルの容量成分を減らすことです。ギターケーブルは高域をロールオフする方向に働きますので、低容量のケーブルを使えば、10kHz以上の成分をもう少し素直に通すことができます。さらに、ピックアップの磁石を変更する方法もあります。アルニコからネオジムに変えると、磁束密度が上がって高域の応答が良くなります。ただし、音色がかなり変わるので、慎重な調整が必要です」
天野社長は、ただ頷き、更なる言葉を待った。
山本は表情を引き締めた。
「……ただ、どれだけ構造を工夫しても、電磁誘導の仕組みそのものが壁になります。ピックアップで20kHz以上を拾うのは、現実的にはほぼ不可能です。高域を少しだけなら伸ばせるでしょうが、アコースティック楽器のような超高域まで存在している倍音を再現することはできません」
天野社長は、あかりのほうを向いて尋ねた。
「水瀬さん、いかがでしょう…」
あかりは、淡々と話し始めた。
「エレキギターとアンプの間に入れるエフェクターを作り変えることによって、ピックアップから出力された信号を基にして、超高周波音をはじめとした、脳に有効な信号を創り出すことができます。そして、全ての電子回路とスピーカーを、超高周波音まで再生できるものに変えれば、育脳にとってかなり有効な楽器へと変貌させることができます。その場合の、音の出口に相当するアンプの増幅回路やスピーカーにつきましては、廉価版ならハイレゾ対応のオーディオ装置のグレードで十分です。プロ用モデルは、できる限り高い周波数まで再生できる スーパートゥイーター を採用すればよいでしょう。この方法の他のメリットは、既に性能の低いエレキギターを持っていたとしても、当社のエフェクターとアンプを追加購入することで、高い育脳効果を示す楽器へと変貌させることができます」
(……なるほど… エフェクターを作り変える…)
研究開発部の山本は、強い衝撃を受けたが、一方で、暗闇に光が差し込んだ感じがした。
「…あの… 水瀬さん… そのエフェクターを実現させるためには、かなり高度な知識と技術が要求されるのでしょうね…」
あかりは頷いたが、すぐに天野社長の顔を見た。
天野社長は、あかりに、次のようにお願いした。
「…水瀬さん、おそらく、ここから先のお話は、既存の知識や技術の範囲ではなく、まだ誰も考えたことのないようなお話になると思うのですが…、その一端だけでも、少しお話しいただけますでしょうか…」
◆ あかりによるエフェクターの基本設計
あかりは、頷いた後、ホワイトボードの前に立ってマーカーを手に取った。そして、特に資料を見ることもなく、一気に書き始めた。
『当社のエフェクターが行うべき処理』
① 超高周波成分の人工生成
② 情動波形の付加
③ 脳波誘導
④ 予測誤差処理の最適化
⑤ 倍音構造の再構成
⑥ 非可聴音の付加
⑦ 空間波形の生成
書き終えると、あかりはマーカーを置き、ゆっくりと振り返った。
「……まず、これら七つの処理は、互いに似ているようでいて、目的も構造も異なります。すべてを一つの回路でまとめて行うのではなく、七つの独立した処理系を、並列に走らせる必要があります。そうしないと、脳に届く波形の整合性が崩れてしまいます」
あかりは、最初の項目を指差した。
「超高周波成分の人工生成は、弦の波形そのものを拡張する処理です。ピックアップが拾った波形を基にして、40kHz、60kHz、80kHz、100kHz以上の帯域を、音楽信号の内部構造として生成します。これは、倍音構造の拡張に近いのですが、目的は、脳の抽象回路を刺激することです。音として聞こえる必要はありません。脳が反応することが重要です」
あかりは、2つ目の項目に戻って説明を続けた。
「情動波形の付加は、演奏者の内部状態を波形に反映させる処理です。演奏者の情動は、呼吸の揺らぎ、筋肉の微細な緊張、ピッキングの速度変化などに必ず現れます。エフェクターは、それらの微細な揺らぎをリアルタイムで解析し、波形の中に、情動のゆらぎとして埋め込みます。これによって、音は単なる物理的な振動ではなく、演奏者の内部状態の写像になります。聴く側は、その揺らぎに自然に引き寄せられ、共感が生まれます」
あかりは、3つ目の項目を指差した。
「脳波誘導は、音の低周波成分を整える処理です。脳は、外部から与えられた周期的な刺激に自然に同調します。エフェクターは、演奏者のリズム成分を解析し、脳が心地よいと感じる揺らぎ──α帯域、β帯域、γ帯域──に近づけるように波形を微調整します。これによって、聴く側の脳の活動リズムが整い、集中や没入が生まれます」
説明が進むたびに、誰もの表情が変わっていった。
(……水瀬さん …何の資料も見ずに… ホワイトボードの文字を指差した後は、私たちに語り掛けるように話している… 全てが頭の中に入っている…?)
(……あんなハイレベルの話を… 立て板に水を流したように…普通にしゃべっている…)
あかりは、4つ目の項目を指差した。
「予測誤差処理の最適化についてですが、脳は、常に“次の音”を予測しています。予測と実際の音の差を予測誤差と言います。エフェクターは、波形の変化速度を脳が心地よいと感じる速度に調整し、予測誤差を最適化します。これによって、脳の抽象回路が強化され、音楽の快感が最大化されます」
5つ目の項目…
「倍音構造の再構成は、アコースティック楽器のような豊富な倍音構造を人工的に生成する処理です。エレキギターは構造上、倍音が乏しくなりがちですが、エフェクター側で倍音構造を再構成することで、アコギを超える音色を作ることができます。これは、音色の限界を超えるための処理です」
6つ目の項目…
「非可聴音の付加は、音楽信号とは独立した“空間波”を生成する処理です。人間には聞こえない帯域を重ねることで、空気の密度や揺らぎを変えます。音の内部構造ではなく、外部構造を整える処理です。身体感覚や空間知覚に直接作用し、音の存在感を劇的に高めます。音の内側と外側を同時に整えることができると、脳を更に強く反応させることが可能になります」
7つ目の項目…
「空間波形の生成は、非可聴音の付加と連動し、音を空間的な波として生成します。これは、音楽というより、空間そのものを設計する技術です。演奏者の出す音が、空間を支配するようになります。みのりさんの演奏は、この処理によって、聴く人の周囲の空気そのものを変える力を持つようになります」
会議室のメンバーは、誰もが固まって動かなかった。
(……こんな話……生れて初めて聞く… ……すごい……)
(……私たちが理解することは到底無理だが… 完璧な理論の感じがする… 構成が綺麗だ…)
(……しかし… …これは電子回路の高度な知識や技術を持っていたとしても… そんな単純な話じゃない… 我々はどうすればいいんだ…)
天野社長は、あっけに取られて固まっているメンバーを見て、思わず口を開いた。
「皆さん、いま、水瀬さんから、新しいエフェクターの概略についてお話しいただいたのですが、おそらく、私たちにとっては、まさしく異次元のお話だったと思います。お話しいただいた各々については、当然のことながら、更に具体的で専門的なお話が続くはずです。電子回路や音響工学の分野だけでなく、脳科学にも詳しくなければ、到底理解することさえ出来ないでしょう。…だからこそ、水瀬さんに来ていただいたのです。山本さん、いかがですか?」
山本は、ホワイトボードに並んだ七つの項目を見つめたまま、ゆっくりと息を吐いた。
「……正直に申し上げますと……これらを実現するための回路設計は、今の私の知識では到底できません。超高周波成分の生成も、情動波形の抽出も、脳波誘導も……どれも、既存の音響工学の枠を完全に超えています」
あかりは、静かに頷いた。
山本は続けた。
「ですが……水瀬さんが理論を提示してくださるなら、私は必ず理解します。理解して、形にします。研究開発部の人間として、これを諦めるわけにはいきません。世界初の楽器を作る機会を、逃すわけにはいきません」
その声は震えていたが、決意は揺らいでいなかった。
あかりは、柔らかく微笑んだ。
「大丈夫です。必要な理論はすべてお伝えします。山本さんなら、必ず形にできます」
山本は深く頭を下げた。
「……ありがとうございます。どうか、技術提供をお願いいたします。私たちの力だけでは絶対に届かない領域です。…ですが、水瀬さんのご指導を仰いで、必ず到達させます」
◆ 一丸となった決意
天野社長は、深く息を吸い、静かに言った。
「……水瀬さん。このエフェクターが形になれば、それは世界初、世界一のエフェクターになるはずです。細かな部分までご指導いただかなければなりませんが、なにとぞ、よろしくお願いいたします」
そう言って、天野社長も深く頭を下げた。
あかりは、静かに天野社長を見つめていた。その眼差しは柔らかいのに、どこか人間離れした深さを宿していた。
そして、社長はゆっくりと姿勢を正し、深く息を吸った。
「……水瀬さん。あなたが示してくださった理論は、私たちがこれまで“楽器”と呼んできたものの概念を、根本から変えるものです。これは、単なる新製品ではありません。楽器や音楽の未来そのものです」
他のメンバーは、大きく頷きながら天野社長を見た。
天野社長は続けた。
「このエフェクターの理論や技術は、キーボードなどの他の電子楽器にも応用できるものであり、共通した問題点を解決できることになるはずです。そして、これを実現したアストレア楽器株式会社は、単に楽器販売を行う会社から脱却し、新たに、人の脳を育て、心身の能力を高める会社になります」
あかりは、微笑みながら頷いていた。
天野社長はさらに続けた。
「そして、そのためには… 水瀬さん…。あなたの技術指導がなければ、この道は一歩も進めません。どうか、私たちに力を貸してください」
天野社長は再び深く頭を下げた。
すかさず、他のメンバーも全員が起立し、一斉に深く頭を下げた。
「よろしくお願いします!」
「よろしくお願いします!!」
あかりは、静かに微笑みながら答えた。
「もちろんです。みのりさんの未来を広げることにもつながりますから…。そして、その未来を支える楽器を作れるのは……アストレア楽器だけです」
その言葉は、誰の胸にも深く響いた。まるで、未来から来た人物が、静かに道を示しているようだった。
天野社長は、これでミーティングを終えることにした。
「では、皆さん。ここから先は、個別に、更に具体的に、水瀬さんから技術指導をいただくことになります。……今日のミーティングは、当社にとって大躍進のスタートになりました。貴重なお時間を割いてご来社いただいた水瀬さんに、感謝の意を表したいと思います。小人数ではありますが、皆さん、拍手をお願いします」
天野社長、企画室の三浦、研究開発部の山本、営業部の田中、広報部の川村、補助で入っていた営業部の佐藤、全員が大きな拍手を送った。
「水瀬さん、今日は、本当にありがとうございました。私はこの後、このメンバーに伝えておきたいことがありますので、ここで失礼させていただきます。ありがとうございました」
あかりも丁寧にお辞儀をした。そして、佐藤に誘導されながら会議室を後にした。
<第43話に戻る> <第45話に進む>

