立ちはだかった大きな壁――プロジェクトE

立ちはだかった大きな壁――プロジェクトE
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◆ 第45話 ── 研究開発部の舞台裏

アストレア楽器株式会社に新設された研究開発部は、静かに、しかし確実に動き始めていた。だが、彼らの前に立ちはだかったのは、誰もが経験したことのない未知の技術だった。それは、既存技術の延長線上にあるものではなく、電子楽器の開発に携わってきた経験者たちの英知を結集しても、到底、太刀打ちできるものではなかった。
誰もが最初に思った。
「難しすぎる」、「想像すらできない」、「そんなもの、できるはずがない」と。
しかし──彼らは、挑むことを選んだ。子どもたちの育脳のために…、高齢者の機能を回復させるために…、人類の未来を救うために…。

◆ あかりが退室した後の会議室
研究開発部の部長を任された山本は、ミーティングが終わった後、一人残って自分が書いたメモを見つめていた。そこには、あかりがホワイトボードに書いた、新規のエフェクターに行わせるべき7つの処理が、丁寧に写し取られていた。
① 超高周波成分の人工生成
② 情動波形の付加
③ 脳波誘導
④ 予測誤差処理の最適化
⑤ 倍音構造の再構成
⑥ 非可聴音の付加
⑦ 空間波形の生成
しかし、個々の説明については書き切れていなかった。部分的に、単語が散りばめられただけの状態だった。
(……これじゃ、研究開発部のメンバーに何も伝えられない…)
山本は困った。
(……単語をつなげて… 出来るだけ文章にしてみよう…)
山本は、あかりが話していた内容を、必死に思い出しながら単語をつなぎ始めた。しかし、たびたびペンが止まった。
(……意味が分からない… 自分で書いた単語も、合ってるかどうかさえ分からない… ……どうすればいいんだ… ……そうだ、会議に出席していた他のメンバーの何人かもメモ取っていた… つき合わせて補填すれば、少しはまともな文章になるかもしれない…)

山本は、自分が研究開発部の部門長であるというプライドを捨て去り、会議に出席していた全メンバーに、メモを取っていたのなら、そのメモを見せてほしいと伝えた。
各々から、様々な返事が返ってきた。
「ぜんぜん書き切れていません。それでもよければ…」
「用語そのものが理解できないですから、書きようがありませんでした」
「本当に部分的で… 少ししかメモできてませんけど… コピーをお渡しします」
「なぐり書きになっているので、読めないかもしれませんよ(苦笑)」

時計は午後の時刻を指していた。
何人かから、メモのコピーが山本のところに届いた。山本は、それらを机の上に並べ、足りない部分を補填し、あかりが話した内容を再現する作業を始めた。

時間が、いつもより早く過ぎていった。
(……なんとか文章にできたけど… これでメンバーに伝えるしかないな…)

◆ 山本から、研究開発部のメンバーへ
研究開発部の発足に伴い、そのメンバーとして、技術部の中から二人の精鋭が引き抜かれていた。一人は、大学院時代に情報工学系で主に信号処理について学んでいた中村拓真。もう一人は、大学院時代に電子回路の設計について学んでいた大野陽斗であった。

山本は、再構成した文章のコピーを手に、研究開発部のメンバー2人を集めた。
「……君たち、集まってくれてありがとう。今日の午前中のミーティングで、水瀬さんが話された内容を、できる限り整理して伝えたいと思います」

山本は、用意したコピーをメンバーに配った。その紙には、7つの処理の項目と概要が、ぎこちないながらも文章として並んでいた。
「先に言っておきたいことがあります。この内容は、私たちの知識では到底理解できない部分が多いと思います。正直に言うと、私自身も、意味が分からないところが沢山あります」

中村と大野は驚いた。頭脳明晰な部長が“分からない”という言葉を発することは、今までに無かったからである。

それでも山本は、真剣な表情で続けた。
「でも……水瀬さんは言ってました。必要な理論はすべて伝える、と。…ならば、私たちはそれを理解して、形にするしかない。誰もやったことがなくても……やるしかないんです」

そう言って、次に、7つの処理の概要を読み上げ始めた。言葉は震えていたが、決意は揺らいでいなかった。
「……これが、水瀬さんが示した“育脳エフェクター”の基本構造です。超高周波成分の人工生成…… 情動波形の付加…… 脳波誘導…… 予測誤差処理の最適化…… 倍音構造の再構成…… 非可聴音の付加…… 空間波形の生成……」

中村と大野は、資料を見つめながら固まった。
(……理解できない……でも……やるしかないのか……)
(……これを実現する電子回路……想像もできない……)

ようやく、中村が震える声で言った。
「……山本部長……これ……どうやって……」

山本は、ゆっくりと顔を上げた。その表情は、迷いと決意が入り混じっていた。
「……分からない。だけど……やるしかないんだ。……まずは、理解できる部分から手をつけよう。そして、理解できない部分は……水瀬さんに直接教えていただくしかない。私たちの役割は、諦めないことだ。……やるしかないんだ」

大野が言った。
「…部長… 理解できる部分と言われましたが…。 正直に言いますが… 少なくとも自分には、どれも理解できません」

山本は、その返事が当然だと感じた。
「…もっともだ… 世の中に存在しないものを新たに作ろうとしているんだからな…。…じゃ、こうしよう。私が社長に現状を報告し、水瀬さんに具体的な指示を仰ぐことにします。その後に、再スタートしよう。じゃ、持ち場に戻ってください」

2人の表情は少し柔らかくなったが、先の見えない、とんでもなく大きな課題を背負ったときの様相だった。

◆ 山本、社長室へ
山本は、再構成した資料を手に、社長室の前に立った。そして、わずかに震える手でノックした。

「どうぞ」
天野社長の声は、いつも通り穏やかだった。

しかし、山本の胸の内は穏やかではなかった。
「……社長。研究開発部の現状について、ご報告があります」

天野社長は、静かに頷いた。
山本は続けた。
「今日のミーティングで、水瀬さんからいただきました7つの処理…… 話された内容を、できる限りの文章にしてみました。研究開発部のメンバーとも話し合ったのですが……正直に申し上げますと…… どこから手を付ければいいのか、まったく分からないのです」

天野社長は、山本の表情を見て、すぐに理解した。
「……そうか。あれほどの内容だからね。…理解できなくて当然だよ」

山本は、少し安堵の表情を示しながら、深く息を吐いた。
「……なんとか… 次のステップに進むための… ヒントのようなものがいただければ…」

◆ 社長の決断
天野社長は、しばらく黙って考えた。そして、静かに口を開いた。
「……ただ… 水瀬さんに… こちらの都合で何度も時間を割いていただくわけにはいかない…。世界規模の研究をされている方だからね…」

山本は、静かに頷きながらも、そのまま引き下がることはできなかった。
「ですが……何から着手すべきかだけでも、方向性を示していただければ……私たちは頑張って動きます」

天野社長は、机の上の電話に視線を落とした。
「……そうだね。まずは、どこから始めるべきかだけでも… 水瀬さんに電話で伺おうか…。細かい技術指導は後日でいいから…、最初の方向性だけでも示していただければ、研究開発部はそれに従う…」

山本の胸に、わずかな光が差した。社長の言葉が嬉しかった。
「……ありがとうございます。それだけでも……大きな前進になります」

◆ 社長、電話を取る
天野社長は、机の上の電話にそっと手を置いた。その仕草は静かだったが、決断の重さが滲んでいた。
(……水瀬さんの時間は限られている…… しかし、どこから手を付ければいいかが分からなければ… 研究開発部は戸惑ったままだ……)
社長は、ゆっくりと番号を押した。

コール音が数回鳴り、あかりが電話に出た。
「水瀬です」
その声は、電話越しでも柔らかく、しかしどこか人間離れした静けさを宿していた。

「水瀬さん、天野です。突然のお電話で申し訳ありません。研究開発部の現状について、少しご相談したいことがあります」

「はい。どうされましたか」

天野社長は、山本から聞いたことを伝えた。
「……正直に申し上げますと、研究開発部は、どこから手を付ければいいのか分からない状態なのです。エフェクターに関する7つの処理の概要を聞かせていただきましたが、最初の一歩が分からないのです。…ただ、水瀬さんのお時間を頻繁にいただくわけにはいきませんので……まず、何から着手すべきかだけでも、ご指示いただければと思いまして…」

電話の向こうで、あかりは静かに答えた。
「天野社長、まず、私がこれから話すことを、録音してください」

天野社長は、少し驚いた。
「録音……ですか」

「はい。今から話す内容は、一度で理解できるものではないと思います。今後、何度も同じ話をするより、録音していただいたほうが効率的です。そうすれば、研究開発部の皆さんが、必要な部分だけ繰り返し聞けますから」

その言葉は、合理的であり、優しさを含んでいた。

「承知しました。では、録音させていただきます」
天野社長は、机の上のボイスレコーダーの録音ボタンを押した。

「では……最初に着手すべき項目をお伝えします」
電話越しに流れたその言葉は、天野社長にとっても、山本にとっても、まさに窮地を救うことになった。

◆ あかりの指示
「7つの処理のうち、まずは、次の三つから始めてください。これらは、既に開発済みのLifeSignal Generator、略してLSG、に搭載している基盤技術ですので、応用が利きます」

天野社長は、深く頷いた。
「はい、承知しました」

あかりは、すぐに淡々と話し始めた。
「その三つとは、情動波形の付加、脳波誘導、非可聴音の付加、この三つです。研究開発部の皆さんでも、最初の一歩として取り組めるはずです」

社長は、録音されていることを意識しながら、静かに言った。
「……ありがとうございます。この指示だけでも、研究開発部は動き出せます」

電話の向こうで、あかりは柔らかく微笑んだような気配がした。
「では、三つの処理について、構造を説明します。図面化は、山本さんたちにお任せします。まずは、全体像を掴んでください」

あかりは、続けて構造説明に入った。
「一つ目の、情動波形の付加ですが……。これは、入力信号の“揺らぎ”を抽出する独立系です。揺らぎとは、演奏者の呼吸、筋緊張、テンポ変化などに必ず現れる0.1〜3Hzの、ゆったりとした周期成分のことです。
抽出には、ローパスフィルタと微分処理を併用してください。ローパスで大まかな揺らぎを取り出し、微分で変化の方向を捉えます。抽出系は、入力信号の“時間軸のゆらぎ”だけを扱うようにしてください。音量や音色の変化は抽出対象に含めないほうが良いです。
付加は、包絡線変調を使います。元の波形の外側に、揺らぎを“包み込む”ように重ねます。揺らぎの振幅は、±3〜5%で十分です。大きくしすぎると、音楽信号そのものが崩れます。付加系は、元の波形の“形を壊さない”ことを最優先にしてください」

あかりは、淡々と続けた。
「次に、脳波誘導についてですが……。これは、8〜13Hzの周期成分を整流する内部系です。脳は、外部から与えられた周期的な刺激に自然に同調します。そのため、入力波形の周期性を解析し、α帯域に近づける補正を行います。
周期解析には、ゼロクロス法と短時間フーリエ変換(STFT)を併用してください。ゼロクロスで大まかな周期を掴み、STFTで細部を補正します。周期解析は、最低でも50〜100ミリ秒の窓幅を確保してください。短すぎると、周期の安定性が失われます。
補正は、波形の内部構造──つまり、微細な周期成分──に作用させます。情動波形とは干渉させないよう、系統を完全に分離してください。補正量は、±1〜2%で十分です。補正は“ゆっくりと”行ってください。急激な補正は逆効果になります」

あかりは、さらに続けた。
「最後に、非可聴音の付加です。これは、音楽信号とは独立した外部系です。20kHz〜100kHzの帯域を人工生成し、空気の密度変化として空間に放射します。
生成方式は、高周波オシレーターと倍音展開を使ってください。オシレーターで基礎波を作り、倍音展開で帯域を広げます。倍音展開は、3〜5次程度で十分です。それ以上増やすと、空間の揺らぎが不安定になります。
音楽信号とは混ぜず、必ず別系統でスピーカーに送ってください。振幅は、音楽信号の1〜3%で十分です。人間には聞こえませんが、空間の揺らぎとして作用します。非可聴音は、音楽信号の“外側の空間”を整える役割です」

そして、あかりは最後に静かに言った。
「ご質問などあるかもしれませんが、メッセージで送っておいていただければ、私の時間のある時に答えさせていただきます。まずは、この三つの系統を“図面として形にすること”から始めてください」

天野社長は、あかりが、一段深い内容を話してくれたことだけは理解できた。
「水瀬さん、本当にありがとうございます。いきなりお電話させていただいたにもかかわらず、時間を割いてご指導いただいたこと、心より感謝いたします。山本をはじめとした研究開発部のメンバーに共有させ、次のステップへと進めます。ありがとうございました」

「いいえ。…早く実現するといいですね。では、失礼いたします」

受話器を置いた天野社長と、側で聞いていた山本は、大きく息を吐いた。
天野社長は山本に問いかけた。
「どう? これで進めそう?」

「…はい… 何が何でも…実現させます。録音させていただきましたので、水瀬さんのお言葉、一言ずつ、メンバーと一緒に理解するところから始めます」

天野社長は笑顔で頷きながらも、山本の普段見せないような表情を見て思わず言った。
「…ところで、山本さん、大丈夫? なんか、顔色が優れない気がするんだけど…」

山本は自分でも、そのときの自分がよくわからなかった。
「……あ…社長…、ご心配をおかけして申し訳ありません。…先ほどの水瀬さんのお話… 私はそれなりに経験を積んだ技術者として自信を持ってきたんですけど…… おそらく水瀬さんは、違うお仕事をされているときに電話が掛かってきて、すぐにあの深い内容のご解答をされたと思うんですけど…。 ……それが信じられないんです。 …いや、もう、人間の域を遥かに超えてるといいますか…。それで、かなりのショックを受けたんです」

天野社長は、その意味を理解し、ちょっと苦笑いをしながら答えた。
「…山本さん、あなたの技術者としての能力、私はよく解ってますよ。水瀬さんって、そのようなお方なのだから… そのへんは織り込み済みにして、これからはあまり驚かないことにしましょうよ(笑)」

「社長、ありがとうございます。少し気分が楽になりました。……自分なりに、全力で取り組もうと思います」

山本は、深くお辞儀をし、社長室を後にした。

挑戦は、いつも静かに始まる。目の前の大きな壁に、誰もが不安を抱え、誰もが迷い、誰もが何度も立ち止まる。しかし、その先にこそ、目標とするものがある。

◆ 録音を聞き返しながら図面化に挑む
山本は、再び、研究開発室のメンバーを集めた。
「水瀬さんから、エフェクターに関する指示が出たので、それを共有します。そして、まずは一度全部を聞いてもらって、各自で感触を確認してください。この部分ならいけそうとか… この部分は自分に任せてくれとか…。 …では、一度再生します」

あかりの声が再生され始めた。山本をはじめ、メンバーは真剣な顔つきで聞き入った。
『一つ目の、情動波形の付加ですが……。これは、入力信号の“揺らぎ”を抽出する独立系です。揺らぎとは、演奏者の呼吸、筋緊張、テンポ変化などに必ず現れる0.1〜3Hzの…… ……<中略>…… まずは、この三つの系統を“図面として形にすること”から始めてください』

一通り、再生が終わった。山本は、メンバーの顔を見ながら、感触を確かめた。
「どう? どんな感じ?」

大野が言った。
「一文ずつ、その意味が理解できるまで調べて、それぞれが理解できれば、今度はそれを実現するための回路を考えて描いていく… そういう地道な作業になると思います」

「そうか…。中村君は?」

「そうですね、ほぼ同じことです」

山本は、頷きながら、覚悟を決めた。
「じゃ、まず、私が図面化に挑戦してみる。私の力の限り、頑張ってみる。そして、可能な限り、目的が達成できそうな回路に近づける。その後、君たちに見てもらって、補充したり、改良したりしよう。それでいいかな」

「はい。先ずは部長、よろしくお願いします」
2人は頷き、賛同した。

◆ 山本の格闘が始まる
山本は、自分専用のスペースに着き、あかりが話した内容の図面化に取り掛かった。
再生ボタンを押すと、あかりの声が聞こえてきた。

『情動波形の付加ですが……。これは、入力信号の“揺らぎ”を抽出する独立系です……<中略>…… 元の波形の“形を壊さない”ことを最優先にしてください』

(…まず、ここまでだ…)

山本は、ノートを開き、図面の下書きを始めた。
抽出系、付加系、包絡線変調──あかりの言葉を一つずつ拾い上げながら、線を引いていった。
しかし、すぐにペンが止まった。
(……抽出系と付加系を分離…… この“分離”をどう図面化すればいいんだ……)

該当部分を、もう一度再生した。
『…… 抽出系は、入力信号の“時間軸のゆらぎ”だけを扱うようにしてください……』

山本は、深く息を吐いた。
(……時間軸のゆらぎ…… 言葉は分かる…… でも……図面にならない……)

それでも、山本はペンを動かし続けた。いろいろなパターンを考えた。時間だけが、刻々と過ぎて行った。

山本は、妻にメッセージにて連絡を入れた。
「今日、帰りが遅くなると思う。心配しないでいいからね」
奥さんから返信が来た。
「ムリしないでね。じゃ、がんばって」

アストレア楽器の本社は、研究室の窓だけが明るく灯り、周囲の街路樹でアオマツムシの大合唱が始まっていた。

山本は、一人になった社内で、黙々と図面と向き合っていた。

どれぐらいの時間が経過しただろうか……
少し集中力が切れそうになった頃、山本は、大学院生であった頃を思い出した。
(……あの頃、初めての学会発表の準備… なんか、こんな感じだったな…。どんなふうに回路を描こうか… 時間を忘れて…何度も何度も描き直した。…そして、気がつけば窓の外が明るくなっていた…。ちょっと懐かしいな…)

(……ただ… 今は学生じゃないんだから… 明日のことも考えないと…)
山本は、遅々として進まない図面を広げたまま、帰宅することにした。

◆ 若手精鋭メンバーとの共同作業
「山本部長…、昨夜、遅くまでやっておられたんですか?」
大野が、ちょっと心配そうな面持ちで声をかけてきた。

「頑張ったんだけどね… かなり手ごわいよ、これ…」
山本は、少し疲れた表情で答えた。

「僕たちも、一緒にやらせてください。中村も呼んできます」

こうして、若手の精鋭技術者2人が山本のところに集結し、作業再開となった。

机の中央には、山本が昨夜に描いた、途中までの図面が置かれていた。

「……部長、これ……抽出系の入り口はここで合ってますか?」
「……いや……正直に言うと、自信がない。録音をもう一度聞こう」

山本は、ボイスレコーダーの再生ボタンを押した。
『ローパスで大まかな揺らぎを取り出し、微分で変化の方向を捉えます……』

中村が言った。
「……ローパスと微分を併用するって…… 並列処理なんですか?それとも直列なんですか?」

山本は、録音を巻き戻し、再生した。
『ローパスで大まかな揺らぎを取り出し、微分で変化の方向を捉えます……』

若手2人は、録音を聞きながら必死に議論した。
「……この言い方だと、ローパスの後に微分じゃないですか?」
「いや、でも“併用”って言ってるから……並列かもしれない……」
「どっちなんだ……」

山本は、図面の前で腕を組んだ。
(……これが……水瀬さんの理論…… 理解できない……でも……形にしなければ……)

録音は、何度も再生された。若手たちの表情は真剣そのものだった。

そうこうしているうちに、山本が最後の線を引いた。
「……よし…… これで…… 最初の図面だ」

メンバー2人は図面を覗き込んだ。
「……抽出系と付加系の分離…… この構造なら、確かに干渉しないはずです」
「脳波誘導の内部系も……一応、形になってますね」
「非可聴音の外部系も……別系統で出力できそうです」

山本は、図面を見つめながら呟いた。
「……完璧ではない…… でも……これで、最初の一歩は踏み出せる……」

メンバー2人は、わずかに笑顔を見せた。

◆ 再び壁にぶつかる
翌日。
研究開発部の試作室には、緊張した空気が漂っていた。
山本、中村、大野の3名は、昨日完成した“最初の図面”をもとに、試作機の組み立てを進めていた。

しかし──その静けさは、長くは続かなかった。

「部長……これ、揺らぎが抽出できません」
最初に声を上げたのは中村だった。
彼は、抽出系のローパスフィルタの出力をモニターしながら眉をひそめた。
「0.1〜3Hzの成分が……ほとんど見えません。フィルタの設定は合っているはずなんですが……」

山本は、モニターを覗き込み、深く息を吐いた。
(……やはり……図面の“分離構造”が甘いのか……)

そのとき、大野が別の卓から声を上げた。
「部長! 脳波誘導の周期解析が……安定しません!」

山本は振り返った。
「どういうことだ?」

「ゼロクロス法で周期を取っても、STFTの補正が追いつきません。α帯域に近づけようとすると、波形が乱れます。補正量を1%以内にしても……ダメです」

中村も駆け寄った。
「……補正が“ゆっくり”になっていないのかもしれません。でも、どこを調整すればいいのか……」

山本は、図面を見つめた。
(……やはり……この構造では……不十分なのか…… 水瀬さんの言葉を……まだ理解しきれていない……)

さらに追い打ちをかけるように、大野が叫んだ。
「部長! 非可聴音のオシレーターが……発振します!」

「発振?」

「はい! 倍音展開を3次まで広げると…… 帯域が暴れて、制御できません!」

中村が言った。
「……倍音展開の“広げ方”が間違っているのかもしれません。でも……どうすれば……」

試作室は、完全に混乱していた。
山本は、図面を見つめながら、静かに呟いた。
「……そうか…… これが……“最初の壁”か……」

中村と大野は、息を呑んだ。
山本は、ゆっくりと椅子に座り、深く息を吐いた。
「……君たち…… 録音を……もう一度、最初から聞こう。何度でも……聞こう。理解できるまで……」

中村が頷いた。
「……はい……」

大野も、静かに言った。
「……やるしかないですね……」

山本は、ボイスレコーダーを手に取り、再生ボタンを押した。
あかりの声が、試作室に静かに流れ始めた。

『揺らぎとは、演奏者の呼吸、筋緊張、テンポ変化などに必ず現れる…… 0.1〜3Hzの、ゆったりとした周期成分のことです……』

その声は、まるで“道を示す灯り”のようだった。

挑戦は、いつも、壁にぶつかるものである。その壁が大きければ大きいほど、乗り越えたときの意義は大きい。

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