30万円の使い道

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佐伯みのり
◆ 第48話 ── みのりが選んだ二つの贈り物

高校の夏休みも終わりに近づいた 8月26日、みのりに一つの通知が届いた。
【入金】振込:アストレア楽器株式会社 ¥300,000 2026/08/26

みのりは、画面を見たまま動きを止めた。
(……入ったんだ)

胸の奥で、何かがゆっくりと広がった。驚きとも、嬉しさとも違う。
ただ、自分の中に“重さ”が生まれた感覚。
指先が、わずかに強張った。

みのりは、息を整えるように、ゆっくりと呼吸した。
そのとき、ふと、ママの顔が浮かんだ。

毎日、お仕事に行き、空いた時間で家事をしている姿。
自分のためには高価な洋服やグッズを買わない姿。
疲れていても、笑って「おかえり」と言ってくれる姿。

(……ママに、何か買いたい)
その思いは、胸の奥から自然に立ち上がってきた。
考えたというより、気づいたらそこにあった。

次に、妹の顔が浮かんだ。
贅沢なことは絶対に言わない。
遠慮して、欲しいものがあっても言わない。
でも、いつも元気で明るい。
そして、姉である私のことをずっと見てる。

(……ひよりにも、何か買いたい)
みのりは、スマホを置き、立ち上がった。

(……行こう)
玄関で靴を履きながら、胸の奥が少しだけ熱くなった。
(……喜んでもらえるかな…)

◆ 何がいいんだろう…
みのりは、玄関を出て、ゆっくりと歩き始めた。
夏休みの終わりの夕方。空気の中に、少しだけ秋の気配が混じっていた。

(……何がいいんだろう)
ママのことを思い浮かべる。料理をしている姿。買い物袋を下げて帰ってくる姿。自分のためには、ほとんど何も買わない姿。

(……ママ、いつも同じ包丁使ってるよね)
前に、刃こぼれを気にしながら使っていたのを見た。「まだ使えるから」と笑っていたけれど、みのりは、その笑顔の奥にある“我慢”を知っていた。

(……包丁、いいかもしれない…)
でも、すぐに迷いが浮かんだ。

(……でも、勝手に買っていいのかな…… もっと別のもののほうがいいのかな……)
歩きながら、胸の奥で考えがゆっくりと回った。
ママが喜ぶ顔を想像すると、そのたびに、胸が熱くなった。

次に、妹のことを思い浮かべた。
(……ひよりは……どうしよう。……前に、文房具のコーナーで… ペンセットを見てたよね…… ほんの少しだけ、手を伸ばしかけて、すぐに引っ込めた。「高いからいい」と言っていたけど、その声は、ほんの少しだけ寂しそうだった。……あれ、買ってあげたい)

みのりは、歩きながら、自分の胸の奥にある二つの思いを確かめた。ママには、毎日の負担を少しでも軽くできるもの。妹には、あの子が本当は欲しかったもの。

(……うん)
みのりは、ゆっくりと顔を上げた。夕方の光が、街の建物の端に薄く伸びていた。

(……決めた)
その一言が胸の奥に浮かんだ瞬間、みのりの足取りは、すこしだけ軽くなった。

◆ ママへのプレゼントを選ぶ
街の雑貨店。入口のベルが揺れた。

みのりは、キッチン用品の棚の前で立ち止まった。棚には、大小さまざまな包丁が並んでいた。刃の形、持ち手の材質、重さ。どれも少しずつ違って見えた。

(……どれがいいんだろう)

順番に眺めているとき、横から声がした。
「いらっしゃいませ!! ……あの、間違ってたらごめんなさい。もしかして、楽器屋さんのポスターの方じゃないですか?」

みのりは、少し驚いて顔を上げた。
「あ……はい。アストレア楽器の……」

店員の男性は、ぱっと表情を明るくした。
「やっぱり! 絶対そうだと思いました。お名前は……みのりさんですよね?」

みのりは、胸の奥がすこし熱くなるのを感じた。自分が知り合い以外の誰かに気づかれるなんて…、名前まで知られているなんて…、今までなかったこと…。

「……はい。ありがとうございます」

「もしかして……お母様へのプレゼントですか?」

「はい」

店員は、棚の包丁を見ながら言った。
「でしたら……ご予算にもよりますが、みのりさんなら、これぐらいのものがいいと思いますよ」

店員は、一つの包丁を手に取った。持ち手は木製で、刃は薄く光っていた。
「この包丁の材質は、宇宙船や人工衛星の外壁にも使われるチタンなんです。軽くて強くて錆びない。何年使っても切れ味が落ちません。お値段も五千円から一万五千円くらいで収まりますし、プレゼントにはすごく良いですよ」

みのりは、店員の手元を見つめた。包丁の刃が、店内の灯りを受けて細く揺れた。

店員は、みのりの反応を見て言った。
「ちょっとだけ、切れ味をお見せしますね」

そう言って、棚の横に置かれた、試し切り用のまな板と、薄いスポンジのような素材を手に取った。
「これ、柔らかい素材なんですけど…… 切れ味が悪い包丁だと、絶対に引っかかるんです」

店員は、包丁を軽く構え、力を入れず、ただ刃をそっと落とした。すると、スポンジが、音もなく、すっと切れた。まるで空気を裂いたように、抵抗がまったくなかった。

みのりは、思わず息を飲んだ。
(……すごい……)

店員は、切れた断面を見せながら言った。
「この切れ味、本当に長持ちします。お母様、きっと驚かれますよ」

みのりは、包丁を両手で受け取り、持ち手を握り直した。木の感触が手のひらに落ち着いた。
(……これ、ママなら喜ぶと思う)

胸の奥に、その思いがすっと落ち、迷いは消えた。
「これにします」

店員は嬉しそうに頷いた。
「良い選択だと思います。お母様、絶対に喜ばれますよ」

店員は、包丁を所定の箱に入れ、レジへ向かいながら、ふと振り返った。
「……あの、みのりさん。もしよかったら、少しだけお値引きしますね」

みのりは、驚いて目を瞬いた。
「え……」
「今日、たまたま在庫が多くて。それに……ポスター、すごく良かったので。お礼というか……応援です」
そう言いながら、店員は照れたように笑った。

レジの画面に表示された金額が、元の値段より一割ほど低くなっていた。
「これくらいなら、うちでも問題ありませんので」

みのりは、胸の奥がまた温かくなった。
「……ありがとうございます」

「いえいえ。お母様、きっと驚かれますよ。良いプレゼントだと思います」

みのりは、包丁の入った紙箱を受け取り、落とさないように、しかし柔らかく抱えた。

◆ 妹へのプレゼントを選ぶ
レジを終えたみのりは、店内の奥にある文房具コーナーへ向かった。
棚には、色とりどりのペンやノートが並んでいた。その光景だけで、妹が楽しそうに眺めていた姿が思い浮かんだ。

(……ひより、どれが好きなんだろう)

みのりは、ペンセットの棚の前で立ち止まった。透明なケースに入ったペンが、店内の灯りを受けて淡く輝いていた。

その中に、妹が前に、ほんの少しだけ手を伸ばしかけて、すぐに引っ込めたペンセットがあった。
(……これだ!)

みのりは、そっとケースを手に取った。指先に伝わるプラスチックの感触が、妹の遠慮がちな仕草を思い出させた。

ケースの裏には、淡い色のインクが並んだ見本が印刷されていた。妹が好きな色が、いくつも入っていた。

(……あの子、こういう色好きだったよね)

みのりは、ケースを胸の前で抱えた。その瞬間、胸の奥にすこしだけ温度が生まれた。

棚の横にいた女性店員が、みのりの手元を見て声をかけてきた。
「それ、すごく書きやすいですよ。インクの発色もきれいで、学生さんに人気なんです」

みのりは、少しだけ驚いて顔を上げた。
「……そうなんですか」

「はい。ノートを取るときも、色がきれいに分かれるので、使いやすいと思いますよ。贈り物にもよく選ばれます」

みのりは、ケースを見つめた。ペンの色が、妹のノートの上で並んでいく姿が浮かんだ。

(……ひより、喜んでくれるかな)
胸の奥に、その思いが静かに落ちた。

「これにします」

店員は柔らかく笑った。
「良い選択だと思います。きっと、すごく喜ばれますよ」

みのりは、ペンセットを抱えてレジへ向かった。歩くたびに、ケースの角が腕に触れた。その感触が、妹の笑顔を思い浮かばせるようだった。

紙袋に入れられた二つの贈り物。包丁とペンセット。みのりは、それを両腕で抱えながら店を出た。

夕方の風が、すこしだけ涼しくなっていた。でも、その涼しさが、胸の奥の温かさを際立たせるように感じた。

(……渡すの、楽しみだな)

みのりは、紙袋を抱えたまま、ゆっくりと家へ向かって歩き始めた。

(……あ、もうこんな時間… ママに連絡入れなきゃ…)
[買い物に出てるけど、もうすぐ帰るから、心配しないで]

◆ 家に帰る
「ただいまぁ」
「おかえり~」
いつものママの声が聞こえた。
そして、台所からは、包丁が、まな板に触れる音が聞こえた。その音は、みのりがずっと聞いてきた“家の音”だった。

妹は、テーブルで宿題をしていた。
二人とも、いつもの場所に、いつもの姿勢でいた。

みのりは、紙袋を持ったまま、ほんの少しだけ立ち止まった。
胸の奥が、すこしだけ熱くなった。

(……渡そう)
ゆっくりと歩き、テーブルの上に紙袋を置いた。
紙袋の底が、木の天板にふわりと触れた。

「……これ、ママに」

ママは振り返り、驚いたように目を見開いた。その表情は、みのりが想像していたよりもずっと柔らかく、そして、どこか嬉しさをこらえきれないような色があった。

「え……みのり……?」

紙袋を開けた瞬間、ママの手が止まった。
ママは、包丁の箱をそっと持ち上げた。
台所の灯りが、刃の光を細く照らした。

「……え……これ……」

声が震えた。
ママは、包丁の箱を胸の前で抱えたまま、しばらく動かなかった。

「みのり……これ……本当に……?」
その言葉は、驚きと嬉しさが混ざって、少しだけ涙の気配を含んでいた。

みのりは、照れたように目をそらした。
「……うん。アストレア楽器から振り込まれたから…」

ママは、もう一度包丁を見つめた。その目の奥に、“ありがとう”という言葉がはっきりと揺れていた。ただの感謝ではなく、みのりがここまで成長したことへの喜びが、そのまま表情に滲んでいた。

「……みのり……ありがとうね……
 こんな……こんな良いもの……」

言葉の途中で、ママは少しだけ笑った。嬉しさを抑えきれないような、でも、みのりに気を遣わせないようにする、そんな優しい笑い方だった。

妹が、自分の分に気づいた。ペンセットの透明なケースが、紙袋の端から少し見えていたからだ。

みのりは、ペンセットを袋から取り出し、妹に優しく差し出した。
「はい、ひよりには… これ。…前に欲しそうにしてたやつ」

妹は、ゆっくりとペンセットを受け取った。ペンが光を受けて、淡く揺れた。
「……ありがとう、おねーちゃん」

その声は、いつもの明るさよりも、すこしだけ柔らかかった。そして、そのあとの笑顔は、家の空気をさらに温かくした。

◆ 夜、みのりの部屋
プレゼントを渡したあと、みのりは自室に戻った。窓の外では、夕方の風が木々を揺らしていた。その揺れが、今日一日の出来事を思い返すきっかけになるようだった。

ママが、包丁の箱を胸の前で抱えた姿。妹がペンセットを手にして、ゆっくりと笑ったあの表情。
(……喜んでくれて ……本当に… よかった)

今日までの自分。これからの自分。その境目が、ほんの少しだけ見えた気がした。

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