《今回のアイキャッチ画像(高解像度版)》
◆ 第36話 ── みのりの演奏と他者の演奏の違い
◆ 音源準備をドクターコースの桐谷が進める
佐野研究室に所属するドクターコースの大学院生・桐谷は、佐野教授に音源の準備を任され、その作業を始めた。桐谷は、図書館でのあかりさんの講演を聞いた後、教授たちがあかりさんに会いに行くというので、本当は同行したかったのであるが、あまり人数が多くなっては迷惑だと判断し、そのまま帰路についた。そのため、教授たちが“ぶつりーず”として演奏したことは知らなかった。
(……えっとぉ… 「ぶつりーず」か… …あぁ、たくさんの動画がアップされてるなぁ…)
(…これが良さそうか… Wonderful Tonight… この演奏中の、佐伯みのりさんがサックスを吹くシーンを切り取ればいいんだな…)
桐谷は、みのりについては、以前にMEGを撮ったので、そのときのことを鮮明に覚えていた。飛び入学が決定し、近々、この研究室にも顔を出すことも知っていた。
(……あの、みのりさんが… サックスを吹く… すごいなぁ…何でもできるんだ…)
パソコンの画面上でWonderful Tonight の演奏が始まると、桐谷の目が点になった。
(……えええっ!?!? 佐野先生!?!…キーボードやってる… …あっ、これ高校の高木先生だ… …ええっ!高原先生が…エレキギター!? …うそだろう… JAXAの人もいる… …ドラム… 水瀬さんだ!!… すっごい… ドラムできるんだ……)
桐谷は、佐野教授からも、あの日に演奏したことなど、一言も聞かされていなかった。
(……いや… めっちゃ上手い… 先生たち… なんで教えてくれなかったんだ…)
桐谷は研究熱心で真面目であり、世間で騒がれていることには、あまり広くアンテナを張らないタイプであった。
イントロが終わると、みのりのサックスが、ボーカルラインを奏で始めた。
「よし! ここからだ…」
桐谷は、動画を数秒戻し、切り取り開始部分を指定した。そして、もう一度、再生を始めた。
(……す、すごい… 絶妙…… だからこそ…研究対象になるんだ… )
みのりのサックスは、Wonderful Tonight のボーカルラインを、ボーカルでは不可能な細かな変化を付けながら、1コーラス分を終えた。
桐谷は陶酔しきった。音源を作らなければならないことなど、すっかり忘れてしまった。
(……あっ、そうだった… 後をカットしなくちゃ…)
みのりのサックス部分だけを切り取った後、比較対照にするための他者によるWonderful Tonight のサックス演奏を幾つか視聴し、最も上手いと感じたものを一つ選んで1コーラス分だけ切り取り、それを比較対照音源とした。
◆ 佐野研究室で実験準備が整う
翌日の午前、佐野研究室には高原教授が訪れていた。佐野教授は、桐谷が準備してくれた音源ファイルを再確認しながら言った。
「これで、みのりさんの演奏と、比較対照の演奏… 両方とも1コーラス、同じ音量、同じ条件で再生できますね」
高原教授は笑顔で頷き、実験プロトコルの全体の確認を進めた。
「ええ。うちのマスターコースの院生2名は準備できています。そして、先生とこの院生さん2名もOKですよね」
「ええ、大丈夫です。うちも、マスターコースの院生2名にお願いしてます。そして、実験の進行やMEGの操作は、桐谷君がやってくれます」
「はい、承知しました。計4名を2グループに分けて、
Aグループ:みのり演奏 → 他者演奏(比較対照)
Bグループ:他者演奏(比較対照) → みのり演奏
の順に聴かせる。被験者が別の音源を聴くまでのインターバルは15分以上。
急性変化を見るだけなら、これぐらいで十分でしょうね…」
佐野教授は、椅子を少し引き寄せた。
「…本当に、何か起きると思いますか?」
高原教授は、少し笑った。
「老齢猫がジャンプしたんですよ。人間でも、何か起きても不思議じゃないでしょう」
その言葉に、佐野教授も静かに笑った。
「……確かに」
◆ 大学院生たちが集まる
10時――被験者になる4名の院生たちが研究室に集まった。
緊張している者、興味津々の者、まだちょっと眠そうな者──反応は様々だった。
桐谷が、被験者たちに実験プロトコルを紹介した。サックスによる同様の曲目の演奏であるが、もちろん、どのような人が吹いているかは伏せられた。
桐谷は、被験者への説明が終わると、佐野教授を皆の前に呼んだ。
「今日は、音楽を聴いてもらうだけです。難しいことは何もありませんので、リラックスしてくださいね」
佐野教授の声に、院生たちは軽く頷いた。
そして、Aグループのうちの 1名がMEG室へ向かった。
◆ MEG室での計測開始
MEG室は、静寂そのものだった。磁気シールドルーム特有の、外界から切り離されたような空気が漂っていた。
Aグループの1人目が、MEGの装置にセッティングされた。
「では、1つ目の演奏(みのりの演奏)を流しますね」
佐野教授が操作卓上の再生ボタンを押した。
音が流れた瞬間、院生の表情が明らかに変化した。
(……やっぱり、何かある……)
佐野教授と高原教授は、モニターに映る脳活動の波形を見つめた。
その数秒後──小脳の活動が、急激に立ち上がった。
「……小脳の予測誤差が……減少している…!?」
佐野教授が、モニターに顔を近づけた。
(……通常、音楽を聴いているだけでは起きない変化だ。……小脳は運動予測を司る領域…。音楽を聴いているだけで、ここまで反応することはまずない…)
佐野教授は、さらに──
「前庭小脳も…活動が上がっていますね。ここは、バランス能力の領域ですよ…」
高原教授は思った。
(……老齢猫のジャンプ…… あれと同じ方向の変化が、人間にも…?)
▼ Aグループ2人目の計測
控室で待っていたAグループの2人目がMEG室へ入り、同じプロトコルにて計測が行われた。
結果は──やはり同じだった。みのりの演奏を聴くと、小脳系の活動が急激に立ち上がり、前庭小脳が活性化し、運動前野の準備電位が短縮した。
▼ Bグループの計測
Bグループには、2つ目の演奏(他者の演奏)を聴いてもらった。
結果は――1人目も、2人目も、波形は静かだった。小脳の活動は通常通り。脳幹の覚醒レベルも変化なし。前庭小脳も平常値。結局、脳活動に有意な変化は見られなかった。
◆ 演奏者を変えた同様の計測の開始
最初の計測から15分の経過を確認した後――
Aグループには2つ目の演奏(他者の演奏)を聴いてもらい、2人の計測を終わった。
結果は――脳活動に有意な変化は見られなかった。
Bグループには1つ目の演奏(みのりの演奏)を聴いてもらい、2人の計測を終わった。
結果は――2人とも、小脳系の活動が急激に立ち上がり、前庭小脳が活性化し、運動前野の準備電位が短縮した。
全ての計測が終わった後、高原教授は大きく深呼吸してから呟いた。
「……やはり、みのりさんの演奏だけですね」
佐野教授は頷きながら答えた。
「……これは……偶然ではありませんね…」
◆ 計測後、大学院生が異変を訴える
最後に1つ目の演奏(みのりの演奏)を聴いて計測を終えたBグループの院生が、首や腕を回しながらMEG室から出てきて言った。
「……なんか……体が軽くなったような気がします……」
その前に計測された、Bグループの、もう一人も続けた。
「僕もです……なんか……動きやすいというか……気持ちいいです…」
教授たちは、老齢猫のジャンプの話を思い出した。
(……やはり……人間にも起きるのか……)
高原教授は、佐野教授に少し小さな声で話しかけた。
「…佐野先生… 1時間後に、もう一度、両方の音楽を聴かせて、垂直跳びと、立ち幅跳びのテストをしませんか…。2回ずつ跳んでもらって平均値を取れば、傾向は見えるはずです。垂直飛びの測定器は、うちの部屋から持ってきますので…」
佐野教授は大きく頷いた。
「……やりましょう。もし本当に身体能力が向上しているなら…これは、重大な発見になります」
2人の教授は、目を輝かせた。そして、被験者の院生には、その旨を佐野教授のほうから伝達された。
「君たち…、本当は、これで終わる予定だったんですが、どうしても併せて調べておきたいことが出てきたんです。それは、体が軽くなったような気がしたという点を、データとして確認したいんです。測定項目は、簡単に準備できる、垂直跳びと、立ち幅跳びの2種類だけにします。協力してもらえますか?」
「はい、大丈夫ですよ!」
院生たちは、教授の言うことなら何でも快く聞き入れる優等生だった。そして、前回に聞いた音楽の影響を無くすために、1時間の自由時間が与えられ、その後の計測となった。
◆ 1時間後の運動能力テスト
1時間後に再び集まった院生たちに、桐谷が実験プロトコルを伝えた。
「まずは、Aグループの2人に2つ目の演奏(他者の演奏)を聴いてもらいます。そのとき、Bグループの人に音が聞こえないように、MEG室に入って聴いてもらいます。演奏が終わり次第、MEG室から出てもらって、一人は垂直飛びから、もう一人は立ち幅跳びから、2回の計測を行います。それぞれの計測は、Bグループの2人にお願いしたいと思います。
次に、それが終わったら、今度はAグループとBグループの役割を交代して、同じことをやってもらいます。ただし、Bグループの人が聴くのは、1つ目の演奏(みのりの演奏)であるところが異なるだけです。分かりました?」
院生たちは、互いに顔を見合わせながら頷いた。
「はい、大丈夫です」
「さらに、その次は、聴く音楽のほうをAグループとBグループで入れ替えて、その他は同じようにやります。分かりました?」
「はーい、分かりました!」
「君たち、ほんとに優秀だね(笑)」
◆ 運動能力テストの結果
4人の院生は、1つ目の演奏(みのりの演奏)と2つ目の演奏(他者の演奏)を聴いた後の、垂直飛びと立ち幅跳びの結果が出そろい、集計が行われた。
その結果、4人の平均値として、みのりの演奏を聴いた後には、他者の演奏を聴いた後よりも、垂直飛びで約4センチメートル、立ち幅跳びで約23センチメートルの向上が見られた(標準偏差などは割愛)。
◆ 演奏者の“正体”が明かされる
計測された院生は、聴く音楽によっては、即効的に跳躍力が変化することに驚いていた。
「こんなことってあるんだね」
「陸上やってる子に教えてあげようかな…」
「ところで、先生! 誰が演奏していたか、教えてもらえないですか?!」
高原教授は頷き、佐野教授に目を向けた。
「佐野先生… 教えてあげましょうか…」
佐野教授は、少し笑った。
「ええ。ここまで協力してくれたんですから、演奏者が誰だったのか、伝えておきましょう」
院生たちは、興味津々の表情で教授たちを見つめた。
「じゃあ、みんな…。さっき聴いてもらった、1つ目の演奏──その演奏者の動画を、今から見てもらいます」
桐谷が、研究室の大型モニターに動画を映し出した。
画面には、サックスを構える制服姿の女の子が映った。
再生ボタンが押される。
そのとき、一人の院生が大きな声で言った。
「あっ!! この子… 知ってます!!」
「……えっ? だれ??」
「…ほら… ネット上で話題になってる… えっと…… みのりって子だよ!」
「……この子が……」
桐谷が、思わず答えた。
「はい。この子は、佐伯みのりさんです。今、高校2年生です」
しばらくして、みのりへのズームから、ズームアウトして全体が見える画角になったとき、ひとりの院生が画面を指さして言った。
「……あれ? あの後ろに映ってる人……」
別の院生が身を乗り出した。
「……え?! あれ……高原先生じゃないですか? あのギター…」
「わっ! ほんとだ!!」
「ちょっと待って…… あっ、後にいるキーボードの人… 佐野先生じゃないですか?!」
研究室が、一瞬で静まり返ったが、次の瞬間
「えええええええええええええっ!!」
大爆発した。
◆ 大学院生たちの大騒ぎ
「これ…… ネット上で騒ぎになってる、ぶつりーずの動画だよ!!」
「ほら! ネット上で話題になってる… 」
「…ぶつりーずって… 先生たちだったんだ…」
「…あっ、そっかぁ… なんか、どっかで聞いたことあるなって思ってたんだ…」
「…ていうか、なんで言ってくれなかったんですか!!」
高原教授は、少し照れたように笑った。
「いや……別に隠してたわけじゃないんだけどね…… 言うタイミングがなくて…」
佐野教授も、肩をすくめた。
「まさか… 気づかれるとは思ってなかったんですよ…」
院生たちは、さらに騒ぎ始めた。
「あんなにはっきり映ってるのに、気づかないわけないじゃないですか!!(笑)」
「え、じゃあ……先生たち、みのりさんと直接会ってるんですよね!?」
「ずるいです!! 僕らも会いたい!!」
「いや、会いたいじゃなくて、話したい!!(笑)」
「先生、前の教授会での話も、学生たちの間に噂として広がってるんですよ!」
「そうそう。飛び入学で入ってくる子がいるって… その子の名前が、みのりだってことも…」
「…その…学力が超優秀な子が… あのサックスの演奏…」
「ちょっと、帰ってから見直すわ…」
◆ 教授たちの説明
佐野教授は、院生たちに向き直った。
「はい、ちょっと落ち着いてください(笑) 君たちが聴いた “1つ目の演奏” というのが、佐伯みのりさんの演奏でした」
院生たちは頷きながら、顔を見合わせた。
佐野教授は、少し笑みを浮かべながら続けた。
「それから、さっき誰かが言っていたように、佐伯みのりさんは、飛び入学で来春からこの大学に入学することが決まっています」
研究室の空気が、一瞬で揺れた。
(……やっぱり… そうなんだ…)
(……じゃあ、来年から、あの子が後輩になるってことか……?!)
(…ていうか……あの子が、普通にキャンパスを歩くってこと…?!)
佐野教授は、さらに続けた。
「それと、みのりさん本人の脳活動をMEGで測定するために、近いうちに、この研究室に来てもらう予定です」
院生たちは、さらに驚いた。
「……えっっっ!!?」
「来るんですか!? ここに…!?」
「…ちょっと……心の準備が……(笑)」
「…話してみたい…(笑)」
佐野教授は続けた。
「今日の結果を踏まえて、正式に依頼を出します。みのりさんの脳活動そのものも、絶対に測定する必要があります」
院生たちは、完全にテンションが上がっていた。
「研究テーマにしたい!」
「あ… みのりさんと共同研究したい!(笑)」
「…彼女になってもらおうと思ってるんじゃないだろうな…(笑)」
高原教授は、そんな院生たちを見ながら笑った。
「みんな、落ち着いて。でも…気持ちは分かりますけどね(笑) …私も、早くみのりさんの脳活動を見たいですからね」
佐野教授は、少し真面目な表情に戻してから話した。
「詳しい解析は、これから始めるのですが、垂直飛びとか立ち幅跳びのデータは自分でも確認してもらったように、佐伯みのりさんの演奏を聴いた時だけ向上しました。また、MEGのデータ上では、運動機能が高まるメカニズムの一端を捉えることができました。これは、音楽を少し聴いただけで即効的に現れた効果ですので、常識的には考えられない凄いデータですし、大発見です。その、データ取得に協力してくれた君たちに、大いに感謝します。結果の詳細は、後日に紹介できると思いますので、今日のところはこれで解散にしたいと思います。今日は、時間を取ってくれて、本当にありがとう」
院生たちは、姿勢を正しながら、丁寧にお辞儀をした。
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